はじめに

 私たちの「ふるさと」は、古琵琶湖層が侵食を受けた解析谷と呼ばれる甲賀市特有の地形の北端地域に位置し、古くから水田耕作を中心にして開けた農村として、長い歴史を重ねて来ました。
 また、蒲生郡(現東近江市)との分水嶺に位置することもあり、田首川・坊谷川の左右に多くの溜池を配置して永らく水の確保に努めながら今日に至っています。
 このような春日での昔からの人々の営みは、今日の急激な時代の流れの中で忘れ去られ消えていくことも少なくなくなって来ました。
 古くからの人力や手作業の暮らしは、昭和30年(1995年)頃から機械化や電化生活などによって、大きく変化を遂げて来ました。そして、それまでの村の様子や人々の暮らしは、現在でなければ伝えていけないのではないかと思われる状況となって来ました。
 この様なことから、まちづくりの一環として、また、平成16年(2004年)10月、旧甲賀郡7町のうち5町(水口町・土山町・甲賀町・甲賀町・甲南町・信楽町)が、平成の大合併で新生「甲賀市」が誕生したことを記念して、伴谷地区ではそれぞれ「区の歴史」をまとめ後世に伝えることになり、ここに「ふるさと春日」の編纂に取り掛かりました。編纂委員のメンバーは常任の3人とその年の区三役・公民館主事でスタートしたものの、伴谷地区文化祭への出展作品作りや、伴谷公民館が編纂された「伴谷の歴史」の内容や当春日との関係についての話題に時間を費やしてしまいました。
 他の区が順次編纂を終わられたとのことを聞き、平成19年(2007年)度に入りようやく“当区としてはどの様な内容(目次建て)にするのか”の検討に入り、構想や目次的なものは出来ましたが、それに沿っての資料集めについては、家の建て替えなどが進み、昔のことを語る資料が大変少なくなってしまったのが現状です。
 頼みとしていた公民館に保存の古い資料は、焼却処分されているものが多く、また保存されている資料も保存状態が悪く(湿気がひどく一枚の紙の様にくっついていて)、内容が全く確認出来ないものが多くあった等、全体的に資料不足から十分な内容とならず、今一歩であり残念な思いです。
 このような中で、とりあえず分かる範囲でまとめることとし、ここに何とか編纂を終えることが出来ました。本誌が、春日発展の一助となり、エネルギーとなればと考えています。

平成21年3月
編纂委員一同

春日の由来と位置

1.春日の由来

 春日は畑村といっていましたが、明治7年(1874年)10月23日に現在の春日村(春日)に朝廷から名前をいただき改称しています。(西田利一郎家文書)
 畑村は、永保3年(1083年)(平安時代後期)以来伴氏の所領で、健武4年(1337年)(南北朝時代)に伴大隅守資景が伴城山に畑村城を築きました。慶長5年(1600年)(安土桃山時代)以後は伴上野介資光の領地となり畑村と八田村を所領していました。慶長7年(1602年)羽柴若狭少将勝俊、慶長10年(1605年)鳥居彦左衛門、慶長13年(1608年)松平隠岐守、石川主膳頭、内藤紀伊守に代々交代しました。
 寛文3年(1663年)(江戸時代)以来幕府代官の小堀仁右衛門、猪飼治郎兵衛、野田源左衛門、中根弥治助等の代官が管治しました。
 天和2年(1682年)加藤明友が石見(島根県)より水口に転封となり水口藩が立藩され、以後水口藩の領地となりました。藩主は一時期鳥居氏に代わっていましたが正徳2年(1712年)それまでの藩主鳥居忠英に代わって下野壬生(栃木県)より、加藤和泉守嘉矩が水口藩主として転封になり再び加藤氏の領地となりました。明治維新後、明治4年(1871年)の廃藩置県で水口県に属することになり、大津県所属を経てその翌明治5年(1872年)滋賀県所属となりました。この時滋賀県は12郡に分けられましたが、甲賀郡はさらに10区に分けられ、畑村は八田、下山、伴中山、上・下・堂(明治8年(1875年)に合併して山村となる)の伴谷地区の各村と下田村とともに甲賀郡第2区に入りました。各村の戸籍事務・行政は戸長が担当しました。明治12年(1879年)区制は廃止されましたが、明治18年(1885年)には、旧甲賀郡第2区の6ヵ村を所管する連合戸長役場が、区域の中心地である春日村に設置されました。明治22年(1889年)4月1日の市町村制施行により、春日連合戸長役場管内から下田村が分離独立し、八田・春日・下山・伴中山・山の各村は合併し、伴谷村が誕生、初代村長には春日の西田忠兵衛氏が選ばれ、村役場は伴中山に設置されました。

※「伴谷の歴史」(平成18年11月、伴谷公民館編纂)を一部変更

2.位置

 春日は、甲賀市の北西、水口町の北部に位置し、東は東は蒲生郡日野町中山に、南は水口町山・水口町伴中山に、西は水口町下山・湖南市岩根・水口町八田に、北は蒲生郡竜王町山之上・東近江市鈴町にそれぞれ隣接しています。
 主要道路からの距離としては、甲賀市内を東西に走る国道1号線の信号「里北脇」交差点から北に4㎞入った所にあり、名神高速道路の竜王インターから9㎞、平成20年(2008年)3月23日に開通した新名神高速道路の甲南インターから14㎞、甲賀・土山インターから17㎞、信楽インターから18㎞の距離にあります。
 当区の主要道路は、中央を南北に走る県道164号(水口竜王線)が縦貫して竜王町山之上に通じ、また、同県道の信号「春日」を起点とし名神高速道路の竜王インター方面への道路として八田を経由竜王町まで通じている県道165号(春日竜王線)が北西方面に伸びており、近年は交通量も多く、当区内には交通信号も2カ所あり、車社会とはいえ交通事故の発生が危惧されているところです。なお、県道164号線は現在春日から竜王町山之上間が一部地道となっていますが、平成22年(2010年)には整備され舗装工事が完了の予定であり、完成すれば更に交通量が増えるものと思慮されています。

参考)
 明治8年(1875)12月作成の「春日村地誌」によると、「里程」として次のとおり記述されていますので、参考として記載します。

里程 滋賀県庁より東方陸地拾里九町廿間四尺四隣
東は蒲生郡中山村元標へ壱里六町北は同郡蒲生堂村元標へ壱里六町八間半 同郡山ノ上村元標へ壱里四町五拾六間 西は本郡八田村元標へ拾弐町十四間半南は同郡伴中山村元標へ廿町十四間同郡山村元標へ廿壱町三拾六間 同郡水口駅元標より壱里半蒲生郡八幡町へ四里半 神埼郡八日市村へ三里半

※春日の元標は、字「四辻」(北村佳晴氏宅南側の交差点の南角、中川章氏宅東北角)にあり、春日の起点でした。山村元標へは峯道を通っての距離です。

【現在の春日(平成21年1月)】

信号「春日」より東春日地域を望む

字(小字)名と苗字・名字(姓)

3.字(小字)名

 明治8年(1875)12月に作成された春日日地誌(B5判、43ページ)(右写真)には、次ページの「春日の小字一覧」のとおり箇所の小字名の記載があります。

現在でも農地関係や所有者台帳等で使用していますが、あまりにも多くの小字がありますので紹介方々記載します。

 春日は山間地であることから「谷」という字が付く小字が17箇所もあります。
 寺院・坊に関する小字も5箇所あり、また、なぜそのように読むのか不思議に思える地名や当て字と思えるもの等もあり、昔はどのような所であったのか往時がしのばれるとこです。
 なお、「よみかた」については、従来からの聞き伝えにより伝承されている表現としましたので、一部に正規とは異なることがあるかも知れません。一例として「谷」は“たん”または“だん”としました。

【春日の小字一覧】(概ね地番順)

小字よみかた備考
1猪ヶ谷せせきだんベアズパウのゴルフ場用地となっている。
2外輪とがわ春日の番地の始まり地点。
一部が第三水口台区の住宅団地となっている。また、ベアズパウのゴルフ場用地となっている。
3坂ノ橋さかのはしベアズパウのゴルフ場用地となっている。
4新打ヶ谷あらうちだんベアズパウのゴルフ場用地となっている。
5山女谷あけびだんベアズパウのゴルフ場用地となっている。
6大砂溜おすだめベアズパウのゴルフ場用地となっている。
7田首たくび一部が名神竜王のゴルフ場用地となっている。
明治6年(1873年)1月まで、現在の神饌田辺りに日枝神社(東山王)があった所。
8兎谷おさぎだん名神竜王のゴルフ場用地となっている。
9川窪かわくぼ一部が名神竜王のゴルフ場用地となっている。
10安養坊あんようぼう大半が名神竜王のゴルフ場用地となっている。
11杦谷すぎたん一部が名神竜王のゴルフ場用地となっている。
12ふけ意味=水がふかい、水深い
13平田ひらた一部が名神竜王のゴルフ場用地となっている。
「春日北遺跡」のあった所。
14後谷おしろだんベアズパウのゴルフ場用地となっている。
15振り合(振合)ふりあいベアズパウのゴルフ場用地となっている。
16内垣内うちがいと圃場整備の実施により地蔵前に併合されている。
17名及出なぎで別名「ふろの谷」とも呼ばれている。
18岨出そわで岨(そわ):意味=絶壁、険しい所
19円山まるやま
20寺奥谷じごくだんベアズパウのゴルフ場用地となっている。
21大谷おおたん一部がベアズパウのゴルフ場用地となっている。
22囲碁木いごみベアズパウのゴルフ場用地となっている。
23峯道むねみちベアズパウのゴルフ場用地となっている。
春日峯道遺跡のあった所。
24大平おおびら一部がベアズパウのゴルフ場用地となっている。
春日山の神遺跡のあった所。
25田中出たなかで
26平林ひらばやし
27寺堤てらつつみ
28野田のだ
29清水しみず一部がベアズパウのゴルフ場用地となっている。
30坊谷ぼうだん
31竹ノ下たけのした

以上、春日の東地域(南北に縦断する県道164号(水口竜王線)より東側地域)
以下、春日の西地域(同上の西側地域)

小字よみかた備考
32芳谷よしだん一部が名神竜王のゴルフ場用地となっている。
33四つ辻(四辻)よつつじ公民館の周辺(昔の春日の元標地点)
34稲葉いなば
35松ヶ崎まつがさき
36地蔵前じぞうまえ
37瀕谷そぶたん瀕=ひん、意味=さしせまる。【例】絶滅の危機に瀕している。
38宮ヶ谷みやがたん明治6年(1873年)1月まで宮ヶ谷池の東側に藤本神社(西山王)があった所。
39四方谷よもだん
40西出にしで
41谷口たにぐち明治8年(1875年)には、この地に敬心学校が開校されている。
42伴城ばんじょう畑村城跡あり
43安垣やすがき
44杬原くいわら春日杬原遺跡のあった所(他の資料では「杭原」と記されているものあり。)
45西裏にしうら
46谷田たんだ
47養津喰よづく
48向出むかいで
49藤谷ふじたん
50坂ノ浦さかのうら
51灰坂はいさか一部が関西電力甲賀制御所の用地となっている。
52髙松たかまつ大半が関西電力甲賀制御所の用地となっている。
53天王前てんのうまえ明治6年(1873年)1月まで、今はないが八坂神社(祇園午頭天王)があった所。
54薑谷はちかめだん(薑=はじかみ=しょうがの別名)一部は関西電力甲賀制御所の用地となっている。

4.苗字・名字(姓)
 明治3年(1870年)に平民に苗字を付けることが認められましたが、当区では「宿谷」姓が多いことは一般に知れ渡っているところです。
 大津市や他県でも「宿谷」姓の方に出会った場合、尋ねてみると「おじいさんが春日出身です。」等と伺うことがあります。
 そこで、春日は振興団地もなく旧来から春日に住んでおられる方ばかり(隣接自治区の)振興団地「第三水口台」の一部が春日地先にありますが、旧来からの春日には振興団地はありません。)のところから苗字を調べてみました。
 平成20年(2008年)における全109戸の苗字の総数は30種類あり、次のとおりです。
 一番多い「宿谷」姓が25件、続いて「西田」姓13件「野田」姓11件、「平林」姓9件「岨中」姓6件「吉田」姓4件「安井」・「中森」・「中川」・「幡野」・「川合」・「丸山」姓が各3件「土城」・「鈴木」・「萩本」「稲葉」・「奥村」の各姓が2件以下「西川」・「西出」・「宮崎」・「谷口」・「岡崎」「宮谷」・「乾」・「松井」・「加藤」・「北村」・「平田」。「大形」・「本田」の13姓が1件のみの姓です。
 春日は10組(中央を縦貫している県道より西側に5組、東側に5組)に分かれています。組別に見てみると、「宿谷」姓は全10組共に存在していますが、2番目に多い「西田」姓は1組から5組の西側に集中しています。また「野田」・「平林」・「岨中」・「幡野」・「川合」・「丸山」姓は東に、「安井」・「吉田」姓は西に集中しています。この理由は、分家や昔の重親類に当たることが多いようです。春日では、他所で言われている「株」とか「株うち」ということは言わないで、「Aさんの家とBさんの家は『母家・新家』の関係です、または単に「『重親類』に当たります」、といった言い方をしています。
 なお、伴谷地区でも春日のみに存在する「岨中」・「大形」・「土城」姓、また春日に一番多い「宿谷」姓は全国的にも稀な姓です。

【春日の組別苗字(姓)一覧】(30種類の姓)

組番号宿谷西田野田平林岨中吉田安井中森中川幡野川合丸山土城鈴木萩本稲葉奥村西川西出宮崎谷口岡崎宮谷松井加藤北村平田大形本田
14411
215121111
3411111111
421311111
512111211
63121111
735111
8115111
922311
104711
251311964333333222221111111111111

春日の苗字の多い順の日本における順位(「日本の苗字七千傑」より記載)

苗字順位苗字順位苗字順位苗字順位
宿谷4632位中川49位奥村201位松井90位
西田112位幡野3272位西川113位加藤11位
野田159位川合579位西出155位北村115位
平林543位丸山76位宮崎64位平田120位
岨中不明土城不明谷口73位大形5436位
吉田12位鈴木2位岡崎178位本田125位
安井361位萩本3829位宮谷283位
中森1098位稲葉305位680位

5.人口・世帯数の推移

(1)明治8年(1875年)
明治8年12月に作成され、滋賀県権令籠手田安定氏あてに提出された春日地誌(B5判、43ページ、毛筆書き)があります。その中より戸数・人口等について、そのままの表現で掲載しました。

項目数量備考
戸数本籍96戸皆平民(農87戸、商4戸、工4戸、雑業1戸)
1社村社に列す
3宇浄土宗2宇、小堂1宇(※)
100戸
人口255人内僧2人、内僧1人他処より寄留
249人
504人皆平民
牛馬牡牛1頭
牝牛21頭
牡馬8頭
30頭

(※)浄土宗2宇・小堂1宇とは、渓蓮寺・若王寺・地蔵堂と考えられます。

(参考)敬心学校(明治8年12月設立当時)

敬心学校生徒数
(春日以外を含む)
47人16人63人

(2)近年の計数
①戸数(世帯数)・人口

年号西暦戸数(戸)人口内 男子内 女子1戸平均
昭和28年1953122戸(529)607(2,762)275(1,329)332(1,433)4.97(5.22)
昭和51年1976118(559)537(2,575)4.55(4.60)
昭和54年1979118(711)545(3,094)4.61(4.35)
昭和60年1985115(805)526(3,455)4.57(4.29)
平成元年1989115(967)531(3,962)4.61(4.09)
平成11年1999112(2,361)488(8,558)4.35(3.62)
平成20年2008109

②保育園児・幼稚園児(参考)

年号西暦男児女児世帯数
平成20年20085人5人10人9軒

③小学生

年号西暦男子女子世帯数
昭和28年195338人42人80人
平成9年199716人19人35人23軒
平成20年200818人11人29人19軒

④中学生

年号西暦男子女子世帯数
平成9年19976人7人13人10軒
平成20年200811人7人(2)18人16軒

⑤老人クラブ(春日楽春会)

年代男性女性備考
平成9年3月1日50人82人132人満60歳以上
平成20年3月10日60人76人136人満64歳以上

(3)伴谷地区の戸数(参考)(平成20年(2008年)3月現在)

八田75広野台西333
春日109広野台東301
下山74第三水口台530
伴中山104桜ケ丘518
117第四水口台460
菅谷287
旧伴谷計479新興団地計2,429
伴谷合計2,908

※本表は自治会加入の戸数です。(平成20年度の伴谷区長会資料より)
※他に自治会未加入が約500軒あります。

区行政組織と会計

(1)区の行政組織改革

 当区は昔からの山間地域で農業がほとんどであった終戦まで(1945年以前)から、戦後の復興期、その後の経済等の発展期にかけ近郊地への工場の誘致・進出に伴い、多くの方々が勤労者として働きに出るようになりました。

 そして農業は機械化の導入に併せ大規模農家等へ委託をされる等、専業農家(自営農家)は減少し、男女を問わず若年齢者から高齢者までもが働きに出るようになって来ました。
 このような時代背景の中、平成に入った1990年頃から、区役員の構成・任期期間・年齢等々について、特に若い人達から改革を求める意見が出始めました。その当時の問題点としては、年度末総会で公民館分館主事に選出されると次年度からは農事改良組合長兼区長代理、そして区長(会計兼務)へと連続3年間も区の要職を務めることが通例のようになっていたこと、また社会の多様化や業務の区長への集中化及び年齢も50歳前で選出され、勤務先でも働き盛りの年代にあって休暇が取りにくい等で、区の主要役職を務めることは大変であった等々から、組織改革を求める意見が出始めたものです。
 このような意見を受け、平成6年(1994年)に「春日区行政改革準備委員会」が区長以下6名で発足、その後同年11月29日には正式に「春日区行政改革委員会」として、区役員や各種団体から27名の委員を委嘱し本格的に検討を開始しました。
 その結果、平成7年(1995年)2月5日に臨時総会を開催し、新たに策定した「春日区規約」が承認となり、同年4月1日から施行しました。主な改正点は、区行政から神社・寺院関係役職を分離すると共に、区長・農事改良組合長の職務を軽減する目的で新たに会計と農事改良組合長代理職を設けたことです。なお、農事改良組合長と会計はそれぞれ区長代理を兼務するが、筆頭区長代理は会計が担当がすることとしました。
 その後、更なる改革として平成9年(1997年)3月2日開催の臨時総会で、「春日区規約」の一部改正に併せ「春日区規約見直しについて」と冠する「申し合わせ事項」を提案、承認のうえ同日から施行しました。
 主な内容として

  1. 区長・改良組合長の年齢は55歳~65歳位とする。
  2. 会計は区長代理を兼ねるが、筆頭代理としない、また、次年度の全ての区役員から除く。
  3. 区役員の役務の連続は2年以内とする。
  4. 氏子総代、壇中総代は、区の役員から除く。
  5. 区役員は重複選出しない、次点の方を選出する。

 等々の画期的な申し合わせ事項が出来上がりました。そして、その後更に数次に亘る改正を行ない、平成17年(2005)4月1日からは区行政より農事改良組合を分離し独立させるという、農村地域ではありますが、現状・将来を見据えた改革を行ない、今日に至っています。

【春日区の組織改革(役職名)の変遷】

年代改革内容役職名
(年度末総会で選出する役職)
平成6年以前(1994)・従来は、区の組織に農事改良組合、氏子総代、壇中総代も含むとしていた。区長(会計職務を兼務)農事改良組合長兼区長代理
土木委員公民館主事
氏子総代倉総代
壇中総代精米主任
顕彰会衛生組合
調査委員農業主事
平成7年(1995)・区長と農事改良組合長の職務の分散化を目的として組織改革を実施。
・区長代理を2名制(1名増)とし、うち1名は会計を兼務し且つ筆頭代理とした。また、農事改良組合長代理職を新設した。
区長区長代理(筆頭代理)兼会計
農事改良組合長兼区長代理土木委員
公民館主事農事改良組合長代理
氏子総代倉総代
壇中総代精米主任
顕彰会衛生組合
調査委員農業主事
平成8年(1996)・衛生組合を発展的に解消し、環境委員と名称変更の上、関係業務を引継ぐこととした。衛生組合 → 環境委員
(その他は同様)
平成9年(1997)・筆頭区長代理を会計担当者より農事改良組合長担当者に変更。

・氏子総代・壇中総代を区の組織から分離。

・区規約に「申し合わせ事項」を新設のうえ新たに運用した。
区長農事改良組合長兼区長代理
会計兼区長代理土木委員
公民館主事農事改良組合長代理
倉総代精米主任
環境委員顕彰会
調査委員農業主事
平成11年(1999)・監査委員の役職を新設し専任職とした。
(従来は、土木委員と組頭代表2名が監査)
監査委員新設
(その他は同様)
平成13年(2001)・精米主任の役職を廃止(職務は倉総代が引き継ぎ)
(12月9日春日営農組合(任意団体)設立)
精米主任を廃止
(その他は同様)
平成17年 (2005)・農事改良組合を区の組織から分離区長区長代理(筆頭代理)
会計兼区長代理土木委員
公民館主事環境委員
顕彰会監査委員
平成21年 (2009)・環境委員(2名)は、東・西地区からそれぞれ1名ずつ選出に改正役職名等の変更はなし

※区長は公民館分館長を兼務しています。

(2)区事業の改革・変更

①総集会の年1回開催への変更
 区民が一同に会する集会(総会)は、平成8年(1996年)度までは1月2日の初寄り(年始恒例の初総集会)と3月の年度末総集会の年2回開催していましたが、平成9年(1997年)度からは3月に開催の年度末総集会のみに変更しています。(初寄りは平成10年(1998年)1月2日から廃止しています。)
 廃止の主な理由は、春日に嫁いでこられた若いお嫁さん達から、「年末の春日神社の籠りや1月2日には初寄り及び組汁(各組ごとの新年会)があり、年末から正月三が日は、たまの連休ではあるが家族での外出が出来ない等で、初寄りや組汁を止めるか、別の日にしてほしい」との要望があり、検討の結果、初寄りは中止し組汁は各組任意(開催すること自体や開催日も各組任意)とすることとなったものです。したがって、組汁は、即年から区外へ出て行っている組や、従来通り家順に輪番で行っている組等、また開催日も組によりまちまちとなっています。

②代参おみくじ抽選日の変更等
ア、代参
 代参については、平成20年(2008年)度では、伊勢神宮、多賀大社、愛宕神社(京都市右京区:火伏せ・防火に霊験のある神社)、春日大社(明治8年9月社名を春日神社と改称以来交流を厚くし今日に至っている)、多度大社(三重県桑名市:雨乞いの神社)の5箇所に各箇所いずれも4名でお参りしています。
 ところが、戦前(終戦1945年)は、讃岐の金毘羅さん(金刀比羅宮、金毘羅宮)(香川県琴平町)の代参も行われていましたが、戦争が激しくなり廃止となりました。
 また、多度大社の代参は小宮さんの社の中から多度大社のお札さんが発見されたことをきっかけとして、昭和53年(1978年)から開始しています。
 春日は昔から稲作の水不足により、雨乞いの祈願を神社等で行っており、雨乞いの神社である多度大社の代参は、古くはお参りされていたのではないかと推察され、それが、何らかの理由で中止になり長らくお参りされていなかったようです。

イ、代参おみくじ
 代参は、おみくじを引くことにより行っていますが、そのおみくじ抽選日が近年次のとおり変更となっています。a.籠りでの抽選に変更
 前項①のとおり、年初の初寄りが平成10年(1998年)1月2日から中止となったことに伴い、当日に行っていた代参おみくじの抽選は、年末の春日神社の籠り(年間行事の項参照)の席で行うことになりました。
 従って、代参おみくじは平成9年(1997年)12月31日から、同日の籠りの席で午後9時頃からおみくじ抽選が行われることに改正となりました。
b.組頭会での抽選に変更
 その後、平成15年(2003年)度の代参抽選から、籠りの席ではなく12月の組頭会(区三役と組長10名で構成)で、氏子総代と乙名代表の立会いのもとに、おみくじ抽選を行うことに変更となり、今日に至っています。
 当選者については、当人に連絡の他、12月の常会及び31日の神社籠りにお参りされた方に分かるように社務所内にも掲出することとしています。

(3)会計(区財政)

 区関係の、区協議費の按分割合の変遷、区の協議費負担割合、協議費の負担割合と金額の変遷、松茸山入札による区収入、池・川等の入札、協定賃金の推移、土地の買収価額については掲載は見あわせていただきます。

松茸山入札と松茸山の状況

 昭和50年(1975年)代までは、区民の中で客山をされている方が数名おられたため、区を挙げて協力し、春日の入口(現在の信号春日の少し南寄り辺り)には「歓迎 春日松茸山」のアーチを立て、お客様の接待には区民の多くが手伝い、お土産物の竹篭に入れる柿・栗等も提供していました。

最盛期の日曜日には、観光バスが十数台も来て大変なにぎわいでした。松茸山の期間中は、落札者しか山には入れず、落札者は「入山権」が確保されていました。

 期間は、おおむね彼岸の入りから11月10日までの約50日間で、現在も同様です。当時は、期間が明けてから山に入っても、土俵松茸を見つけることもあり、また多くの種類のきのこも沢山採れたものでした。

 その後、松くい虫の被害が当区でも広がり赤松が枯れたり、またヘリコプターによる田んぼへの航空駆除が行われ農薬散布の粉や液が山までふりかかったり、地主が木の葉掻きや伐採・下草刈り・枯れ木の撤去等もされなくなり、山は荒れ放題の状態となりました。この様な中でも、平成のはじめ(1991年)頃までは、まだまだ松茸が沢山採れ(特に振合・芳谷・瀕谷で多く採れ)組頭仲間で毎年落札し、家族も参加して松茸狩りを行い、すき焼きや松茸、土瓶蒸し等で何回も食べたり松茸を皆で分け合ったり、全員が楽しんだものでした。その後は、松茸はおろかきのこも殆ど採れなくなり残念です。昭和47年(1972年)からは名神竜王カントリー倶楽部、また平成5年(1993年)からはベアズパウジャパンカントリークラブのゴルフ場開発に伴い主要な山がゴルフ場用地となり、今では落札金額も最盛期の2%余りと微々たる金額になっています。

各種団体と活動内容

 区民(区)活動に関する組織の他に、区組織の下部組織として各種の団体や親睦団体、また同一年代の仲間同士による団体等があります。その中より、平成19年(2007年)度における活動状況について、その一部を記録しておきます。各種の活動は、数十年経っても、同じ様な活動を行っているかも知れませんが、若い時代の事や苦労したこと等は、それぞれ各自の思い出として、いつの時代でも残っていくものでしょう!

(1)公の組織・団体
 公の各種団体における平成19年度の事業内容について、記載します。記載漏れ等があるかも知れません。ご容赦ください。

平成19年(2007年)度

区三役
組頭
土木委員
環境部
公民館
文化・体育部
老人クラブ
(数え65歳以上の有志)
子ども会
毎月組頭会(協議・連絡) 
組頭会(徴税)
環境パトロール公民館清掃(組の輪番制で毎月実施)
草の根文庫(毎月2回開館)
ゲートボール
グランドゴルフ
交通立番
ふれあい
憩の会(隔月)
花壇の手入れ
防犯パトロール
4月予算会区民奉仕作業
不法ゴミ回収
社寺等奉仕作業
懇親慰労会
5月春祭り
チャレンジデー
チャレンジデーチャレンジデー春祭り
6月区民奉仕作業
不法ゴミ回収
伴谷地区ソフトバレーボール大会防犯パトロール地区別懇談会
7月墓地の草刈り下水マス点検
地域パトロール
墓地の草刈り
伴谷地区キックソフトボール大会防犯パトロール七夕会
親子一日旅行
夏休みラジオ体操
8月戦没者慰霊祭
納涼祭
花火大会
区民奉仕作業
不法ゴミ回収
納涼祭
花火大会
物故者追悼会夏休みラジオ体操
絵画展
地蔵盆行事
9月伴谷地区運動会 神社八幡祭り 松茸山入札伴谷地区運動会防犯パトロール
空き缶拾い
伴谷地区運動会
伴谷地区運動会
子ども奉納相撲
お菓子作り
10月防犯パトロール
11月神社新嘗祭
収穫祭
ドングリ苗植樹
伴谷地区文化祭
区地区別懇談会
防犯パトロールドングリ苗植樹
12月忘年会
墓地焼却場清掃
年末夜警
下水マス点検
地域パトロール
社寺等奉仕作業
懇親慰労会
防犯パトロール
クリスマス会
1月元旦マラソン
敬老祝賀会
元旦マラソン
敬老祝賀会
防犯パトロール元旦マラソン
2月神社祈年祭
親睦旅行
土木勘定精算防犯パトロール
3月区総会
監査会、決算会
防犯パトロール
総会
六送会
女性部(46名)赤十字奉仕団(63名)健康推進員(4名)消防団(9名)その他
毎月
随時
グループ毎の会議
習い事あり
寺:毎月1日念仏
春日会ゴルフの会
(隔月)ご詠歌講
大正琴
4月新団員の勧誘新入団員研修
消火栓・防火水槽点検
5月春祭り社費団費徴収納入チャレンジデー春日神社春祭り
6月伴谷地区ソフトバレーボール大会町総会ポンプ操法大会
7月ゴミ拾い
伴谷地区クックソフトボール大会
墓地草刈り清掃
伴谷ディサービス奉仕
スポーツの森清掃
法人社費集金
バザー
健康講和(たばこの害)奉仕作業(草刈)
8月戦没者慰霊祭福祉センター草刈り
献血テッシュ配り
秋の一日奉仕
町炊き出し訓練
健康づくり啓発活動花火大会警備お精霊
墓参り
施餓鬼
9月県防災訓練伴谷地区運動会警備等
10月
11月親睦旅行
区地区別懇談会
両陛下ご訪問前の清掃奉仕分団訓練
救急救命講習
中学生ボーリング大会
中学生空き缶拾い
12月公民館掃除
女性部忘年会
ふれ愛フェスティバルメタボについて年末夜警ゴルフ場地権者懇親会
神社籠り
1月敬老祝賀会出初め式山の神祭典
2月健康教室
3月総会青少年赤十字水口方面隊訓練
  • 夏はキャンプ
  • 納涼祭への出演(内容としては、素人演劇、おどり、カラオケ(当時はカラオケとは言っておらず、「歌謡曲・流行歌を歌う」
  • 単に「歌を歌う」と言っていた)、エレキバンド演奏など。
  • ハイキング
  • サイクリング、バイクリング
  • 旅行、登山(伊吹山への夜間登山は何回も登った。)
  • 境界回り(隣接区との境界を確認して回るもの)
  • 枝切り(道路へはみ出した樹木の枝の伐採)
  • 運動会・球技大会への出場(応援活動も活発に行った)
  • 通学路の雪かき

(2)任意団体等

①青年団(若人クラブ)
 年齢が16歳位から25歳位までの若者(青年)の仲間の団体として、青年団活動がありました。(「ありました」とは、残念ながら平成に入った頃になくなってしまっているためです。)
 昭和の30年代~40年代は、春日の青年団は名称を「若人クラブ」と称し、次のような活動をしていたと記憶しています。

【納涼祭における素人演劇について】
 春日でも納涼祭は昔から行われていたようです。実施日は墓参り当日の8月10日の夕方から夜にかけて行われていました。実施日を墓参りにしているのは、嫁いだ方々が親やご先祖の墓参りに帰って来られ、その日は泊まられたため、10日の夕方から実施されたものです。(納涼祭は、近年は8月10日前後の土曜日の夜実施に変わっています。)
 素人演劇については、台本作りから演出まですべてを素人で行い、早い時期から毎日のように夕方から公民館に集合し夜遅くまで練習をしていたものでした。

【以前の納涼祭について】
 昭和20年代の納涼祭は、映画会(今はないが当時映画館は水口に2館、下田に1館あり、いずれからか写しに来てもらっていた)か、浪曲(浪花節)・漫才など(京都の興行師に頼み、京都・大阪から来てもらっていた)でした。
 当時は、家にはテレビもない時代であり、1年に1回の納涼祭を楽しみにしていた方も多かったものと思われます。
 なお、納涼祭の場所としては、現在は草の根広場で行っていますが、当時は草の根広場はなく、戦前は蚕の飼育場や春日作業所前で行っていました。雨天の場合は、作業所の中で映画会等がありました。

②講
 春日では、他所と同様に次のような任意団体(「講」という字が付いているもの)があります。名称に「講」が付いているように大部分が宗教に関係があるグループです。

  • 善光寺講(長野の善光寺に一緒にお参りした仲間)
  • 行者講(女人禁制の大峰山に行かれた方々の仲間)
  • 観音講(女性のお年寄りの方々、昔は尼講・茶講といっていた)
  • ご詠歌講(5グループ、85名、女性の方々のグループ)
  • 五重講(五重相伝会を受けた方々、3グループあり)
  • 鉦講(昭和57年に結成、各組から1名で構成)

年間行事

(1)年行事(年用事)役
 従来、年行事と呼ばれる役については、東・西で各2軒(名)ずつが輪番で1月1日から12月31日を1年とする暦年により、次のような用務を務めていました。

  • 1月2日:初寄り(初総集会)に出席された方へのお茶出し、灰皿・座布団並べ、後片付け等
  • 1月2日頃:春日神社で使用するお米(玄米ともち米)集め(現金の場合は500円)
  • 1月3日西の総山の神、1月9日東の総山の神の祭日当日のお祀り
  • 3月の総集会(年度末総会)時も1月2日の初寄りと同様の用務
  • 9月15日頃:春日神社八幡祭時の松茸山の入札への参加案内(全戸案内)
  • 9月15日頃:松茸山入札時のお手伝い
  • 12月30日:お札さん(大麻)の各戸配り
  • 区からの諸事項の伝達(衛生回り、野止め等の伝達)

 しかし、近年の用務は山の神のお祀りと大麻(お札さん)配りのみです。なお、東の当番は従来、男子で年齢順(20歳位で当たっていた)に務めていました。年行事は「年行事指し」役の長老の方から「次年度の年行事は誰と誰である」と指名されていましたが、近年は養子に来られた方もあり年齢順が分かりにくいこと、また誰が春日にいて誰がいないのか良く分からないこと、少子化で年々若くして当たって来る等により、平成16年(2004年)度からは6組から(一部5組の3軒を含む)の家廻りに改正しています。(西は従来から家順となっています。)

(2)年間の行事等

実施日行事名内容
1月1日※元旦マラソン朝8時に草の根広場に集合、2㎞と1㎞の2コースで走り初めをしています。
(平成20年(2008年)は、子ども15名、大人22名、計37名の参加でした。)
初詣氏神さんの他、田村神社、多賀大社、近江神宮等にも初詣をされている方が多いようです。
県下では正月三が日で、多賀大社46万人、近江神宮14万人の様です。
3日~11日※山の神さん祀り東・西の各総山の神の他に仲間(講)の山の神が7カ所ありお祀りをしています。
1月9日頃※獅子舞
(伊勢太神楽、6名)
午前7時頃から各家を巡回。昼食は公民館で区三役が接待しています。
1月中旬敬老祝賀会区主催で、数え70歳以上の方を対象としての祝賀会。
(区の年間予算の約1割の費用を使用しています。)
平成20年1月13日は該当者109名(男41名、女68名)の内、81名出席でした。
1月中旬お伊勢参り神社庁及び氏子総代会の各甲賀支部企画の恒例お伊勢参り。
氏子総代、宮守、6人衆、乙名代表、区役員、厄年・祝年の該当者の方々等がお参りされています。
(参加は任意です。)
3月初旬※年度末総会区の総会の他、改良組合、営農組合、氏子・壇中の総会も同日に開催しています。
3月彼岸五重作礼会五重相伝受者の春彼岸の法要です。
4月中旬道作り(奉仕作業)農作業時期の前に農道の補修作業(主に砂利もち)を行うもの。
近年は地道も少なくなり、草刈り・(粗大)ゴミ拾いが主な作業です。
場所は組別に割当てです。(時間帯は午前8時から昼までの半日)
4月20日過ぎ水しかけ、水回し改良組合の役員と各組1名の水利委員により、田植え前に圃場に水が入るように仕掛けるもの。
「何日から水回しをするから」との連絡により、各戸はそれまでに水止めをしたものです。
ただし、平成18年(2006年)からは、改良組合主体から営農組合に依頼(請負)に徐々に変わってきています。
5月5日※春祭り「春祭り」の項参照
5月下旬チャレンジデー5月の最終週の水曜日に実施されている世界的なイベント。
当日15分以上の運動をするもの。
甲賀市は平成18年度から、当区は19年度から参加しています。
平成19年5月30日は73名参加の下にウォーキングを実施しました。
6月下旬頃草刈り(奉仕作業)午前8時から昼までの半日奉仕作業です。(組別に区域を割当て)
7月下旬墓地の草刈り以前は女性部の方々が行っていましたが、平成10年頃から、各戸1人の出役に変更となっています。
(時間帯は午前7時から9時30分頃まで)※平成の初め頃から、春日も火葬に変わって来ています。
8月上旬戦没者慰霊祭春日出身戦没者の慰霊祭。渓蓮寺で催行しています。
8月7日※お精霊(しょうらい)子どもの行事(男子のみ)
8月10日墓参り午前5時30分から渓蓮寺において
8月10日頃納涼祭、花火大会平成16年(2004年)からは、納涼祭と運動会とで交互に開催しています。
但し、花火大会は毎年実施しています。
8月13日迎え灯お精霊の迎え灯
8月15日送り灯お精霊の送り灯
8月15日施餓鬼渓蓮寺で
8月24日頃地蔵盆子ども会で地蔵盆行事を行っています。
8月24日百八灯会春日神社内、百八灯堂・地蔵堂で催行。
8月下旬川ざらえ、草刈り(奉仕作業)秋の刈り取り期を控え、農道・川・用排水路の草刈りと泥・土砂さらえです。
午前8時から昼までの半日奉仕作業(組別に区域を割当て)です。
8月31日頃※垣内(かいと)念仏組ごとに宿の家に1戸1人が集まり念仏・百万遍の数珠繰りをし、終了後直会をしています。
9月上旬伴谷地区運動会昭和の終わり頃までは伴谷小学校の運動会と一体で開催していましたが、その後地区運動会として独立しました。
なお、総合グラウンド新設(平成3年)からは同所に会場を変更しています。
地区運動会は、旧水口町では伴谷地区と柏木地区が継続されているようです。
9月中旬子ども奉納相撲春日神社八幡祭の祭典後、神社境内において
小学生、保・幼稚園児(男子)による子ども相撲を奉納しています。
9月彼岸五重作礼会五重相伝受者の秋彼岸の法要です。
10月上旬※運動会区民が一同に会す唯一の行事で、昭和57年(1982年)10月31日に第1回開催から継続中の行事です。
但し、平成16年(2004年)からは納涼祭と交互に隔年ごとの開催となっています。
12月31日※籠、除夜の鐘「籠り」は、次項「年間行事」の項参照

・行事名の頭の「※」印は、後記に詳細記述してあります

(3)年間行事の主なもの

①籠り
 大晦日(12月31日)の夜9時前後より、1軒に1人(男性)で忌の悪い方を除いた方々が春日神社にお礼参りをした後、社務所で年が明ける頃(12時過ぎ)まで“こもり”、その後お寺へお参りしていました。
 昭和40年(1965年)代までは、トランプや花札等をされて、朝まで籠られた方もあったと聞いています。平成10年(1998年)過ぎまでは、宮守2名の家族や親戚の方々は12月30日頃から掃除や諸準備等の手伝いに駆り出され大変であった(重親類の少ない家は年末の忙しい時期にもかかわらず薄い親戚までにもお手伝いを依頼する必要があった)等から、家族のみで行えるように改革され(籠られた方へのおつまみ・お菓子・みかん等は氏子総代で準備し接待はしない等簡素化された)、併せて籠りの終了時間も午後11時頃には一般の方々は帰宅される様に変わって来ています。

②元旦マラソン
 昭和50年(1975年)代の後半頃より、公民館(区)と子ども会の共催で「元旦マラソン」と名付け、元日の午前8時頃より草の根広場から東方面へ約1㎞と2㎞の2つのコースに分けて走る、走り初めの「元旦マラソン」を開催しています。
 当日は、区三役、公民館主事・同主事補、体育部長等体育部の役員、子ども会(PTA)の役員の協力の下に、花火の打ち上げを合図にスタートし、子どもたちには入賞賞品や参加賞を出しています。近年は、大人の参加者も多く、たき火を囲みながら年始の挨拶等の親睦を図っている行事です。因みに、平成20年(2008年)の参加者は、子ども15名、大人22名でした。

③山の神の祭事
 西の総山の神、東の総山の神、その他7箇所の講(仲間)の山の神があります。祭日は、正月3日、7日、9日、11日と奇数の日に行われています。
 祭日の朝、講の皆が藁に餅・みかん・田作・栗・干し柿などを持ち寄り、また当番の世話方はお神酒・洗米・塩・するめ・昆布等を準備します。
 皆でしめ縄(7尋半以上)を作り真中にツトを付け、2本の御神木(男木・女木)に吊り下げます。そして、木の股で男女のご神体を作り顔を描き(女木は怖い顔に、男木はやさしい顔に描き)半紙を巻きお供えします。
 その後、しめ縄の中央を鎌で下から切り、男のご神体は女木に、女のご神体は男木に相供え、祝詞「山王参拝敬って申す早生も良し中生も良し晩生も良し、大麦・小麦・大豆小豆その他28種の作りもの皆よーしわぁー、他家内安全・無事通学通勤をお願い申ーすー(祝詞は山の神により若干の相違があるようです。)」を奏上し、五穀豊穣・家内安全・交通安全をお祈りしています。
 祭事が終われば、たき火を囲みながら直会をし、御神酒等をいただきながら親睦を図っています。直会後は、お供え物を全員にお下がりとして分けますが、家に持って帰っても女性は頂くことができません。
 山の神の祭事も、当日が平日の場合は勤めがありお参りの方も少ないようです。そこで山の神によっては、近年は祭日に近い日曜日に変更しているところが多いようです。

名称祭日場所軒数等備考
1西・総山の神3日渓蓮寺横5組の3戸を除く西の全戸
2東・総山の神9日寺堤池横5組の3戸を含む東の全戸
3名及出山の神9日寺堤池横8+α(12)
4岨出山の神3日寺堤池横15毎年11~12名の方がお参りされている
5峯道山の神7日寺堤池横33+6(39)大正3年は38名、表示登記上は29名、祭日は近年7日に近い日曜日に変更
6吉山の神11日寺堤池横17元の囲碁木山の神
7東古衆山の神3日平林進氏宅東19+1(20)輪番制で2軒が当番。祭日が1月3日と休日の為、ほとんどの方がお参りされている。名称の由来は不明です。
8宮ヶ谷山の神9日宮ヶ谷池の西16+2(18)近年9日に近い日曜日に変更
9七日山の神7日岡崎豊氏宅の北1~3組の家現在は祀られていない

 

山の神の神事:講の仲間が持ち寄ったお供え物

神木にお供えする男女の神木

④獅子舞
 松の内の催しとして獅子舞(伊勢の太神楽)があり、早朝から各戸を巡回してもらっています。
 昭和の30年(1995年)代までは、毎年1月8日(その昔は異なっていた様です)に巡回されていました。当日は学校では三学期の始業式等で半日であったため、子どもたちは午後からお獅子の後ろを付いて回わり、的屋(露天商)の「ニッキ水」(木箱の中に薄いビンに入ってありクッション材として籾殻が使われていた。)・「カルメト」・「お面」等のおもちゃを買うのを楽しみにしていたものでした。いずれも値段を忘れましたがニッキ水は1本5円位であったか、カルメトは3個で10円位であったのかなぁー。
 また、昭和の30年代頃であったと思いますが、お寺の境内で「おやま(遊女)の道中」や「茶わん継ぎ」等の大道芸を目の当たりにし、大変感激したものでした。

⑤年度末総会
 3月の上旬から中旬頃に、区の年度末総会(各戸から1名出席)を行っています。期日を3月の早い時期にしているのは、区の帳簿(会計)や事業は3月末で締め、4月1日には新体制に引き継ぐためです。そのため、まず会計を早く締め会計監査を受け、3月の組長会で承認を受け、この決算書は4月の常会で区民に回覧されるシステムとなっています。(年度末総会では会計決算報告や次年度の事業計画の議事はない。)このようなシステムは何時頃からなのか、昔から行われていたのかは不明です。総会の主な議題は次年度の区役員の選挙です。他は本年度の事業報告です。
 区の総会は、平成10年(1998年)からは、この年度末総会のみの年1回となっています。なお近年は、当日、区の総会の他に春日農事改良組合、農事組合法人春日営農組合、氏子・壇中の各総会も併せ開催しています。

⑥祭り
 春祭りは、以前は5月1日であった(その昔、明治8年作成の春日地誌には4月の申の日と記載されている)が、昭和57年(1982年)に子ども神輿の寄進により、5月の第2日曜日頃(期日決定は3月の年度末総会で決定)に変更の後、更に平成15年(2003年)からは毎年5月5日(子どもの日)になっています。
 春祭りの5月1日から別の日への変更の検討については、当初5月の3日又は5月5日のいずれかとの話もありましたが、昭和57年(1982年)当時は本田(村池の水の入る田)の植え出し(田植えの開始日)が5月3日であったため5月3日はダメ、5月5日はゴールデンウイークの最後の休日であり家族で出かけたい、との要望もあり、その次の日曜日となり、この第2日曜日が続いていました。この場合の問題点としては、毎年期日決定の諮問を年度末総会にかける必要があり、また宮司さんの予定や祭りの準備等からも一定の日にする方がベターであるとのことから5月5日に改定したものです。

⑦お精霊(おしょうらい)
 小学1年生から中学2年生までの男子の行事で、東地区と西地区に分かれて行っています。
 東のお精霊は、昭和の終わり頃までは長男しか参加できませんでしたが、二男以下の子どもは参加出来ず可哀そうであること、また子どもの数が年々少なくなって来たことから、すべての子どもが参加できるように改正となっています。(なお、西は以前からすべての男子が参加出来ていました。)
 行事内容は、東地区では8月7日の「お精霊立て」と8月13日の「お精霊の迎え火」、西地区は8月7日の「お精霊立て」と8月15日の「お精霊の送り火」の、それぞれ2日に亘る行事です。8月7日の行事は、年長児の家が宿の当番をし、子どもたちは宿の家に一旦集まった後、野菜集めと寄付金集めに各家を回り、お精霊の竹立てを行い、宿の家で昼と夜に御馳走をいただいています。
 近年は、子どもの数が少ないため、前日の6日に野菜と寄付金集めをし、7日の当日にお精霊立て(竹立て)をしている状態です。以前は当日にリヤカーを引っ張って各家を回り野菜の他に麦わらも1束ずつ集めていました。

ア、8月7日の行事
a.お精霊立て“
 お精霊立て”は、真っ直ぐに伸びた大小2本の真竹をもらって来て、大きい竹(長い竹)は先の方の笹を残し、その下約1m位の所に補強の竹を添え縄で何重にも巻き、この部分を縄でくくり竹を立て、この竹は強風でも倒れないように四方に引っ張っておく。短い竹は、長い竹に添わせて立てておく。また、立てた竹を中心として周囲を四角形にして麦わらや藁で囲み、残った麦わら等は中に入れておきます。

b.野菜集めと寄付集め
 8月7日は、宿の家で昼と夜に御馳走になるため、子どもたちは皆で野菜集めに各戸を回り、寄付金をお願いし、集まったお金で年長児がノート・鉛筆等を買って来て皆に配り(一部現金配付もある)、夜は買ってきた花火等をして皆なで楽しんでいます。この行事の良いところは、お精霊について知ることで先祖から自分へのつながりを考えることや、子ども同士の親睦を図ること、上下関係の規律等を学び、野菜集めや寄付金集めでは各戸を回るため、家が覚えられる等々です。

イ、8月13日・15日の行事
a.東地区(8月13日:お精霊の迎え火)
 東地区は、8月13日に子どもたちはお精霊立ての場所に集まり、7日の日に立てた竹を倒し、午後0時30分頃から囲いの中の藁等を「迎え火」として燃やし先祖の魂を迎え、これを各家はロウソクや線香に移して持ち帰り、仏壇の前の祭壇にお供えしお祀りしています。
 「迎え火」を燃やす時、年少の子どもたちは宿谷勘樹氏宅裏の小高い畑の所から「おしょうらいの迎え火、こうれについてもんでくれ」と何回も大声で叫び、先祖の魂を迎えます。

b.西地区(8月15日:お精霊の送り火)
 西地区は、東地区と同様ですが、8月15日に送り火として藁等を燃やすもので、「おしょうらいの送り火、こうれについていんでくれ」と何回も叫び、先祖の魂を送り火とともに送ります。

c.8月15日の祭壇
 お供え物の川流し仏壇の祭壇にお供えした品は、平成の初め頃までは15日の日に、近くの川(坊谷川)まで持っていき、藁・線香に火を付け念仏を唱え川へ流していましたが、環境保護等の問題から川に流すのは止めています。

⑧垣内念仏
 明治以前から続いている行事で、終戦(1945年)以前は8月31日の午後、各戸から1人ずつが集い、組の各戸を回り百万遍念仏をお唱えしながら大きな数珠を繰ります。最後に宿の家で御馳走をいただいていました。
 各戸の念仏には、子どもたちも布の袋を持って付いて回り、お菓子等をもらい又御馳走を頂くのを楽しみにしていたとのことです。
 実施日は、現在では8月31日前後の土・日に多くの組が実施しています。今でも子どもたちが参加している組もあれば参加していない組もある等、組により内容に相違があります。

⑨運動会
 運動会は昭和57年(1982年)10月31日を第1回とし、伴谷小学校グラウンドを借用して始まり、既に20数年に亘り続いています。現在の会場は、春日草の根広場が出来た数年後より同広場で開催しています。
 運動会の開催までは、同じく伴谷小学校グラウンドを会場として、組別対抗ソフトボール大会を行っていました。
 ソフトボール大会から運動会に変わった経緯は、当時の小学校のグラウンドが狭く、或る試合で飛球を取りに行った外野手が鉄棒に激突し怪我をするという事故があったこと、ソフトボールは一部の者しか楽しめないこと、女性の方にとってはボールのスピードが速く怖いこと、等々から、みんなが集まり楽しむものがないかと検討の結果、既に伴谷の他の地区で行われていた運動会に変わったものです。

 なお、第1回の運動会を開催するについて、当時の役員の方々は大変なご苦労いただいたと聞き及んでいます。


 例えば、競技種目については老若男女が適度に出場出来る種目は何があり、どのような内容にするか、また、あまり大層な用具がいらなくて、且つある程度面白い種目はないか、そして組対抗を意識したものに出来ないか等々、種目を決めプログラムを作成するだけでも大変であったものと考えられます。
 また、準備を含む当日の運営はどの様にすればよいか、全員参加のため昼食はどうするのか等についても、早くから何回も会議が持たれたとのことです。
 近年における区民の意見として、「組の人数も少なくなったので止めたらどうか」、「役員が大変であるので当区も止めたらどうか、他の区では数年前から中止している。」等、納涼祭ともども中止の意見が出ています。しかし、運動会に代わる良い行事もなく、運動会は唯一区民全員が集うことの出来る行事で、一旦止めたら復活するのは大変であること等から、協議の結果、平成16年(2004年)より、納涼祭と運動会を交互に開催しています。

(1)おこない
 おこないは、「行」・「お行慣」等とも書かれています。男女を問わず長子について行われ、氏子になるための通過儀礼で、原則として年2回一度に2人の幼児が対象となります。当日、神社では鏡餅を幼児の守護菩薩である神社内の地蔵堂の地蔵菩薩をはじめ神々にも供え、乙名衆、幼児の保護者にも撞きたての餅が振る舞われ、幼児の家は直会のための重箱料理を乙名衆に振る舞われています。少子化のため、永らく年1回、1月24日のみとなっています。
 地蔵講の日に行われてきたことからも、仏教と深い関係にあった行事ではないかと考えられます。
 その昔は、当日、重箱に大根と豆腐をサイコロ切りにしたものを入れ、神社にお参りしました。この大根と豆腐のサイコロ切りは当日お参りした乙名衆の方々に振る舞われていましたが、近年は重箱料理に変わってきています。

(2)村人入り
 区内の成人男子2名が毎年2月24日に、乙名全員が揃った席上で、「高砂」など目出度い謡曲が謡われる中、上宮守の酌で乙名長老と杯を交わし、将来乙名入りの資格を与えられる儀式です。春日神社の紋章の入った扇子が授与されています。

(3)乙名入り
 村人入りの祭事を済ませた男性において、毎年半年ごと(3月と9月の1日)に1名の方が「乙名入り」をされています。
 当神社の場合は、一度乙名入りをすると、一生涯に亘り神社の祭典・式典日にお参り出来ることとなっています。この方式は伴谷の他の字にはなく、他の字では定年制を採用されていますが、春日の場合は健康であれば何歳になってもお参り出来ることとなっています。
 乙名入りに当たっては、平成の15年頃までは、式典当日に乙名の方々にうどんを振る舞う慣習となっていました。この為に、儀式当日はおいしいうどん汁を作り、また給仕や接待のため親戚の方々までにもお手伝いを依頼していましたが、改革され仕出し屋さんの弁当に変わっています。
 また、昭和の終わり頃までは、初老の祝いと同様に、乙名入りが出来るまで目出度く健康で生きていられたとのことで料理屋や仕出し屋からたいそうな御馳走で親戚の方々を振る舞い、お祝いをされていました。

(4)神縄吊り(勧請吊り)(かんじょうつり)

両脇の杉の樹に掛け替えられた勧請縄

 神社の下段広場から中段広場への参道の両脇の杉の樹に神縄(勧請縄)と呼んでいる大綱を掛け替えて、五穀豊穣・村中安全を祈る1月6日の行事です。
 乙名全員が藁1束ずつを持ち寄り、まず乙名の若手が長さ7尋半の大縄を綯いあげます。大縄の中央には大きな藁笣が付けてあります。綯い手一同が「ひと尋、ふた尋…なな尋はーん」と大声で唱和しながら長さを計ります。
 また乙名年長者が中心になり、12本の御幣の竹串のそれぞれに12種の広葉樹の小枝を吊るした飾りを作ります。
 大縄、御幣の飾りを吊るす現場へ運び、大縄に御幣を突き刺し、さらに予め用意されていた、表に陰陽五行説に基づく星印、裏に願い事を書いた勧請板を縄の中央に吊り下げ、出来上がった神縄(勧請縄)を参道の上に掛け渡し、諸願成就を祈る神事です。

(5)境界まわり
 青年団(春日は昭和40年位から「若人クラブ」と称していた)の行事として昭和40年(1965年)代までは続いていたものに、境界回りがあります。
 これは、春日と他地区との境界を歩いて回り、境界を歩いて通れるように雑木等を伐採したり、境界杭の朽ちたものや杭のないところは新たに立てたりして、境界の確認をしながら、地域を知ること、及び参加者の親睦を図ることを目的として実施していました。

(6)枝切り
 青年団活動の一事業として、道路等に伸びた木の枝を切って回ったものです。伸びた木の枝は、通行の邪魔となり、家や畑・たんぼの影となり作物の生育にも支障があり、じゃまにもかかわらず、なかなか「枝を切ってください」と言いにくいものです。
 青年団では、このような枝の伐採をして回りました。青年団が切ったものは、誰からもとがめられなかったことから、責任をもって切ったものでした。

(7)神社の維持管理
①氏子総代、宮守と6人衆
 春日神社の運営は、毎年3月の年度末の氏子総会(区の年度末総会に併せ開催)で選出された氏子総代(任期3年で、毎年1名選出)と乙名入りされた方から6人の「6人衆」(宮守2名を含む)を中心として準備を行い、宮司の斎行で祭典が行われています。しかし、月次祭の祭典は上の宮守が宮司の代務を、地蔵講の法要は渓蓮寺の住職が導師となり行われています。
 宮守は2名(上の宮守・下の宮守の各1名)で、6ヵ月交代(通して1年間)で務めていただいています。
 6人衆の方々は、祭典前日より(場合によっては前々日から)諸準備をされ、祭典の当日は早朝から務めていただいています。このお陰で、祭典にお参りすると駐車場から境内・社殿・社務所・トイレまで大変きれいに掃除をしていただいています。
 なお、平成15年(2003年)までは、神社の清掃を含む維持管理は宮守2名の方と家族の方々で行っていましたが、諸事情から6人衆により維持管理をすることに変更されています。
 また、神社の清掃等については、老人クラブ(満64歳以上の方々が会員で平成19年度は会員134名、平成20年度136名)により年間3回、お寺等と共に清掃奉仕作業を行っていただいています。

②氏子青年
 神社関係行事の手伝いとして、旧来から「氏子青年」と称して男子6名が任命されています。近年は、毎年2名ずつ交代で3年間の務めです。
 主な任務は、
 ア、国民の祝日に草の根広場にある国旗掲揚台に国旗を掲げる(輪番制)
 イ、春祭りの前日・当日の手伝いをする
 ウ、年末の神社境内等の清掃の手伝いをする
 エ、神社三例大祭日に代表者がお参りする
 オ、神饌田の維持管理
 カ、神饌田で収穫した稲穂を新嘗祭当日にお供えする
 キ、その他、神社事業への参加と協力等 です。

農業と農具と生活用品

(1)昔の農作物等
 終戦(1945年)から昭和30年(1995年)代までは、米作を中心とし、裏作等で生計を立てていたようですが、当時の米作とそれ以外の農作物は次のものが栽培されていました。

  1. 裏作(麦・菜種など)
     昭和の30年代前半までは、米作の裏作として麦・菜種・大豆を栽培していました。しかし、その後裏作は徐々にやめています。麦・菜種は一部で畑でも作付していました。
  2. 養蚕(まゆを取るため蚕を飼うこと)
     その昔は畑作で桑を作り、家で蚕を飼っている家が多かった様で、区に蚕の飼育場があり、昭和の30年代までは養蚕をしている家がありました。
  3. タバコ(ナス科の大形一年草)
     タバコを栽培し、煙草の原料としてその葉を出荷している家が一部にあり、区の施設としてタバコの葉の乾燥場がありました。
  4. 陸稲
     陸稲は畑で栽培するお米で、一部の農家で栽培していました。
  5. 干瓢(かんぴょう)
     春先から畑で「しゃく」(夕顔)を栽培、夏に収穫し、これを巻き寿司には欠かすことの出来ない「かんぴょう」に加工して出荷していた家が多くありました。昭和30年代までは、子どもたちも「しゃく」の皮をむいたり、竿で干したりする等の手伝いをしていました。
  6. 各種の野菜作り等
     昭和30年頃まで農業普及員の指導により、それまで当地では不可能とされていたトマト栽培や果樹の桃・ぶどう作りが出来るようになり、農協に出荷していた家がありました。

(2)古い農具(農業用資材)等
①籾等を入れる用具


ア、ひなげし(写真、上段、藁製)
 籾・麦・大豆・ジャガイモ、さつまいも等を運ぶ用具として利用していました。菜種・玄米等の小粒のものの場合は、網目からこぼれない様に内に新聞紙などを敷き、その上から入れたものでした。 なお、籾の運搬用に使用していたのは、コンバインの導入以前ですひげなしは使用しない時期は、写真左上の様に重ねて十文字に縄を掛け、かさ張らないように、また持ち易いようにして保管していました。

イ、かます(写真、藁製)
 供出用の玄米入れとして俵の次世代用として利用していたもの。かますは、他では肥料・飼料入れとしても多く利用していました。戦争なかばまでは、多く獲れた「にしん」が田の肥料として「かます」に入って送られて来たとのことです。

ウ、麻袋(写真、麻製)
 コンバインの導入以前の脱穀機使用時には、この麻袋に籾を入れて運んでいました。

エ、コンバイン袋(写真)
 コンバインの出現により専用の袋として使用していました。

オ、紙袋(写真)
 現在では、玄米を入れる袋は、紙袋(30㎏)を利用しているところです。

②その他の農業用用具


ア、ふご(上写真)
 軽くて少量のものの運搬用具です。紐がないので荷うことは出来ないが、「手」が付いているので1人または2人で運ぶことができます。

イ、むしろ(畳1畳分の大きさ、藁製・上写真)
 籾・大豆・小豆等を天日干しする場合や、ビニールシートの出現までは敷物としても利用していました。「むしろ」は冬場にむしろ織機で織っていた家が多かったようです。

ウ、こも(藁製)(上写真)
 「むしろ」で籾等を干す場合、地面に直接「むしろ」を敷くと湿気が上がってくるので、「こも」を敷き並べ、その上に「むしろ」を敷き籾を広げて天日干しにより乾燥していました。
 子どもたちは毎朝登校までに「こも」を敷くのを、下校後は片付けるのを手伝いました。

*こもの利用―こも巻き
 現在、「こも」の利用法としては、庭園等のマツ等に付く害虫駆除として晩秋時期にマツ等の幹に「こも」を巻きつけ、春先に「こも」の中で越冬した害虫を「こも」ともども焼却し駆除する時に利用されていることで知られています。

*「籾干し」=「籾の天日干し」
 籾乾燥機の普及や農協のカントリーエレベーターの利用までは、籾は各家で天日干し(太陽の熱で乾燥させる)を行っていました。(籾干し)
 この籾干しは、秋の籾の収穫時期について、家の前の畑を籾干し場(畑一面を平坦にならして籾を干す場所としたもの)に変更し、籾を干したものでした。

エ、しゅろ縄、麻縄(写真)
 主に手での田植え時に、横幅を同じにするため検竿で計り縄を張ったものです。検竿の使用は苗が植え易く草取機も使用し易いためでした。後年は、軽くて扱い易い、また長持ちするビニールやナイロンの紐(縄)の出現によって、取って代わられました。

オ、もっこ
 「もっこ」は、細い縄を四角い網状に編み、その上に荷物を載せ、になえる様に長い紐が付いています。


「もっこ」に荷物等を載せ「にない棒」(前ページ写真:両端に二本の金具が3㎝程度あけて付いており、にない紐が滑り落ちないようにしてある)で肩でにない運んだものです。

カ、よこだ(横打)(上写真)
 大豆・小豆等をむしろに広げ天日干しした時、鞘の中の豆を鞘から早く出して早く乾燥させる時に、この「よこだ」で鞘を上から叩き豆を出す等に使用します。

キ、よこ槌(横槌)(上写真)
 利用用途は多い様です。一例として、少量の大豆を干した場合に、「よこ槌」で鞘を叩き豆を中から出す時に使用します。藁でむしろを編んだり縄を綯う場合、藁を石の上などでこの「よこ槌」で叩き、柔らかくし、腰を強くし、すぐった上で使用しました。また、ナスやトウガラシの茎を支えるための木を打ち込む時にも使用します。

ク、籾さがし(上写真)
 籾を「むしろ」で干す時、「むしろ」一杯に籾を広げるのにこの「籾さがし」で広げます。なお、籾は朝広げたものを一日中そのままにして置くのではなく、午前と午後に干し直し籾が均等に、また早く乾燥するようにしますが、この時にも「籾さがし」を利用します。

ケ、からと(穀物貯蔵器)(上写真)
 ブリキ製の米・麦等の穀物保存容器です。2俵入りから7俵位まで数種類あった様です。

コ、1斗缶(上写真)
 少量の穀物や湿らせてはいけないもの等を保存していました。蓋が丸いものと四角のもの、さらに丸い蓋に取っ手が付いているものと付いていないもの等があります。

サ、高うま・脚立(足継ぎ)(上写真:右端)
 木製の脚立は上面が丸型から長方形のものまであります。背の高いのは「高うま」と言っています。

シ、とうし(上写真:左端と上段の1斗桝の左)
 丸型とうしの色々。中の網の部分も藤や金属製等色々です。とうしは、中の網の目の粗さに応じて使用目的が異なっています。

ス、み(箕)(上写真:左から2列目の奥)
 金属(金み)・竹(竹み)、藤で出来ているのもあります。主に脱穀した籾や精米した玄米を袋などに入れたり移し替えたりする時に使用します。

セ、1斗桝、1升桝(上写真:最上段中央とその手前)
 玄米や白米等を量る時に使用しました。(米1斗は15㎏、4斗で1俵(60㎏)です。

ソ、弁当ふご(上写真:前列の中央)
 昼やこびる(小昼)用の弁当やおやつ等を入れて田や畑・山仕事に持って行ったものです。

タ、秤秤(写真:最前列)
 量る物を吊るし、分銅を動かし目方を量りました。写真の秤は手で持つところが2箇所にあり、重いもの(80㎏)と、もう少し軽いものの2種類の計量が可能です。昭和40年頃まで使われていたと思われます。その後は台に乗せたら量れる台秤が出現しています。

チ、米用じょうご(写真:右から2列目)
 「からと」の上の穴から中に玄米などを入れる時や各種の入れ物に穀物等を「み」ですくって入れる時に使用します。

ツ、唐箕
 足踏み脱穀機等で脱穀した籾や大豆は、藁くやゴミ、空籾や籾殻などが混じっていますので、これらを風の力を利用して穀物と以外のものを選別する農機具です。

テ、縄ない機(写真)
 藁縄を作成する足踏み式の縄ない機です。藁を藁かち機や横槌でかち、腰を強くし柔らかくした上で、縄の太さに応じて藁を喰わせて行くとクルクル回転しながら縄になり、巻き取りドラムが回転し縄を巻き取って行くものです。

ト、千歯こぎ(写真)
稲・麦・大豆等を金の歯と歯の間でしごく方式の脱穀用具です。

③生活用品等
ア、火鉢(写真:右下)
 大きなものから小さなものまで色々の種類がありました。殆どが信楽焼ですが、アルミ製や鉄製銅製等もありました。

石油ストーブやエアコン等の暖房器具がなかった頃は、火鉢で暖をとったものです。また、畳の部屋での会議や会席等では2人に1個火鉢を置いたものでした。なお、夏火鉢はたばこを吸うについて、ライターはなく、マッチを一々使うのはもったいない時代に、火鉢の火でたばこ(主にきざみたばこ)を吸う時に利用されていたようです。

イ、かたくち(火鉢の上)
 樽等に入っている醤油や酢をこの「かたくち」に小出しして使用していました。醤油は通常1斗樽に入ってあり、醤油屋さんが定期的に来て置いていきました。また酢は1升瓶に入っていました。

ウ、壺、とっくり(右上写真)
 みそ、茶の葉、酒、穀類などを保存したり、一時的に入れたりしていました。

エ、薬研(右上写真)
 薬効をもつ草・根・木や動・鉱物質のものを粉砕するときに使う一種の製薬用具です。煎じた薬草などを切り刻む時に使用しました。

オ、櫃(ひつ)(右写真)
 炊き上げたご飯を入れる容器。この櫃は風呂敷で包み、更に「ふご」に入れて保温を保ったものです。現在のジャーと同じ機能です。

カ、重箱(じゅうばこ)
 各種の食べものを、持っていったり持ち帰ったりした時に、この重箱に入れ利用しました。昔は、各家ではよくお餅をついたり、ぼたもち(おはぎ)・赤飯・おこわ・かやくご飯等を作りました。この時も、重箱に入れて親戚に配りました。

④藁の保存方法(すすき、ちょっぽ、束、把(束))
 稲藁(藁)は、結束状態や保存状態によって次のとおり表現しています。

ア、把(わ)(右写真)
 稲藁を両手で握れる位の大きさで、根元から20㎝位のところで稲藁または紐で結束したもの。昔は、稲の刈り取り作業等はすべて手作業で行っていたが、この時刈り取った稲は1把1把を稲で結束していました。(1把2把と数える)

イ、ちょっぽ(右写真)
 把6把位を寄せて穂先の方で結束し、広げて立てて乾燥させる状態のもの(写真の右下のもの)。(6把のものを「6つちょっぽ」と言う。)

ウ、束(右上写真)
 ちょっぽを上下交互に6つ位をまとめ、真中で結束した状態のもの。(藁を運ぶ又は保存する時にこの状態にすることを「束に結う」と言います。)

エ、すすき(右上写真)
 藁を写真のように、三角錐状に括りつけた状態にしたものを言います。「すすき」を作るには「ちょっぽ」4つを立てた状態で結束し、その周りに更に「ちょっぽ」を4つくくり付け(これが土台)、その上に「ちょっぽ」を少し上にずらしながら結わえて行き、5段まで積み上げます。(「ちょっぽ」の状態よりも長期間保存する時に「すすき」にします。)現在、稲の刈り取りは、すべてコンバインで行っているため、普通に刈り取りを行えば稲藁は約20㎝位に裁断されてしまいます。その為、藁を保存等する場合は、コンバインの裁断機能を使わず結束した(把とした)うえで利用しています。なお、ちょっぽや束・すすきにするのはすべて手作業です。

(3)稲わら干し
 平成19年(2007年)9月22日付の朝日新聞朝刊滋賀版に「稲わら干しよみがえる」との見出しで、春日営農組合が行っている「稲わら干し」の風景写真と共に記事が載りましたので、次に掲載します。

稲わら干し よみがえる

 甲賀市水口町春日で、稲刈り後のわらを田んぼで干す懐かしい風景が、今あちこちで見られる。竜王町で大規模に飼育されている近江牛の飼料用で、地元は牛ふんをもらって土づくりに役立てる。2年前からの取り組みだ。稲わら干しは、春日営農組合が管理している田んぼで行われている。稲を刈るコンバインを操作して、脱穀後の稲わらを結束、田に立てる。刈り取ってから2週間くらい干すという。同組合は高齢化などで農業が出来ない農家の田約17ヘクタールを請け負っているが、このうち10ヘクタール分のわらを利用する予定だ。この風景は、農家が農耕用の牛を飼っていた50年ほど前までは各地で見られた。わらの利用が減った今は、刈り取った後、裁断してしまうが、営農組合による農業の大規模化でよみがえった。

 平成19年(2007)9月22日付、朝日新聞朝刊滋賀版より転載。

春日用水の守り

 宇宙科学は大変進んで来ました。右の写真は人工衛星「かぐや」(月周回衛星)からの地球の映像です。この青い地球の美しい地球上に水が沢山有ることを示しています。しかし、地球上のどこでも満遍なく水に恵まれているのではありません。水の豊富な日本でも地域によって差があります。

 春日は接する蒲生郡(現東近江市)などとの分水嶺となる地形に位置し利用できる水の少ない地域になっています。水田で稲作中心の農業を営んできた先人は水の確保のため水を大切にし、工夫と苦労を重ねてこられました。

(1)天宮堂と雨乞い
 その昔、地蔵堂や天狗堂は天宮堂と呼ばれていました。この神聖な地で水不足の解消を願って護摩を焚き雨乞いをしていました。
 また、雨乞いだけでなく、早くから大小の溜池を各谷の奥に築き、湧き水や雨水を蓄え、稲作用水として利用して来ました。溜池のない谷では上部の田に常時水を蓄えておくようにして来ました。溜池の数は大小40以上もありました。

(2)池の改修と年貢
 検地が行われ領主や代官に年貢を納めた記録があります。豊臣秀吉の太閤検地は有名です。
 春日にも延宝7年(1769年)の検地帳があります。年貢を課す基本台帳の名寄帳嘉永4年(1851年)は、各組毎に残っています。また、領主や代官が池の改修を勧めていた記録も残っています。

池名年代西暦池の改修内容 等
猪谷池寛永元年 甲子1624支配代官 岩七郎【石馬守】 修理堀被成下候
明暦元年 乙未1655
明治9年 丁丑1876出願取扱修築
田首池元和4年 戊午1618池床成る
万治2年 己亥1659支配代官 岩七郎
安政6年 己未1859領主 加藤【越中守】
寺堤池慶長元年 丙申1596池床成る
明和6年 己丑1769領主 加藤相模守
大平池寛永元年 甲子1624池床成る
万治元年 戌亥1658岩七郎
享和元年 辛酉1801加藤越中守
大谷池
川窪池慶長15年 庚戌1610池床成る
安養坊池
宝永7年 庚寅1710領主 鳥居忠救
長池
杉谷池宝永18年 壬巳1721池床成る
慶安4年 辛卯1651水口城代 山口弘隆但馬守修理
芳谷池慶長15年 庚戌1610池床成る
瀕谷池寛文7年 丁未1667池床成る
貞享3年 丙寅1686支配代官猪飼治郎兵衛 修理被成下候
安政元年 甲寅1854領主加藤越中守 修築取扱被成下候
養津喰池寛文4年 甲辰1664池床成る
明治9年 丙子1876滋賀県へ出願修築取扱仕候
宮ヶ谷池慶長19年 甲寅1614池床成る
天和2年 壬戌1682支配代官猪飼治郎兵衛 修理被成下候
明治6年 己丑1873領主加藤相模守 修理被成下候
明治10年 丁丑1877滋賀県へ出願修築取扱仕候
髙松池
薑谷池

(3)溜池
 春日(畑村)は、土地が高くどこからも水が流れて来ることがありません。そのため昔から谷の一番上に溜池を作って農業の水を確保して来ました。
 春日村地誌(明治8年:1875年)によると数十の溜池を随所に作り雨水を蓄えていたとあります。
 村池では安養坊池、杉谷池、田首池、猪ヶ谷池、芳谷池、寺堤池、大平池、瀕谷池、宮ヶ谷池、養津喰池等、そして村池のない谷では個人の池や仲間の池があり、用水を確保していました。
 溜池のない谷では、上部の田を早くから耕作(田植えの出来る状態にしておくこと)をし、常時水を蓄え池代わりとして利用していました。
 これらの水は主に田首川・芳谷川・大平川に流れ、3つの川が一つになり坊谷川となり伴中山へと流れています。春日の西地域の灰坂川・薑谷川は八田へ流れ、祖父川の上流となり湖南市下田へ流れています。
 なお、溜池のうち灰坂池(通称関電池)は、関西電力の甲賀制御所の開発により、関西電力が造成したもので、本池からパイプラインの敷設により宮ヶ谷池まで約2㎞をポンプアップで送水、更にパイプラインを延ばし、新池からの本管にも接続させて水の確保を図っています。

(4)田の水の確保
 昭和30年(1955年)頃まで、前年秋に日照りが続くと翌年春には鋤で田の畦堀をし畦ごねをしていましたが、耕運機が導入されるようになってからは畦前を機械でこねて田の水が漏れない様にして水を確保していました。
 田の水は、圃場整備をされるまでは田から田へと田越しに流しており、最後に余った水が川に流れるようにし、水を大切に利用していました。

(5)雨乞いの願掛け
 終戦(1945)頃まで、田植え時期の前後に雨が降らないと、雨乞いがかかり(雨乞いのお祈りを行うこととなり)、「日参」・「数参り」・「やなみ灯篭」・「笹踊り」と順次お祈りをし、願掛けをしたとのことです。

  1. 日参(1週間のお祈り)
     雨乞いがかかると、まず「日参祈願」を行ったとのことです。日参は、各戸から一人が1週間、各自すきな時間帯に神社に参り、二の鳥居から拝殿下の石段まで、“雨降れ”と唱えながら祈願したとのことです。
  2. 数参り(1週間のお祈り)
     日参のお祈りをしても雨が降らないと、「数参り祈願」といい、各戸から一人が1週間、各自自由な時間帯に神社に行き、境内にある樫の葉10枚を取り、二の鳥居から拝殿下の石段までをお祈りしながら進み、石段に1枚ずつ葉を置くという(計10回)、祈願をしたとのことです。
  3. やなみ灯篭(1週間のお祈り)
     数参りの祈願をしても雨が降らないと、「やなみ灯篭祈願」といい、各戸から一人が1週間、提灯を持って日中に神社に行き、二の鳥居から拝殿下の石段まで提灯を持ちながらお祈りする願掛けを行ったとのことです。
  4. 笹踊り
     それでも雨が降らないと「笹踊り祈願」といい、各戸から一人が神社に集まり、「雨降れたんもれさ、ぶちゃけてたんもれさ」と歌い、笹を持って踊り、太鼓を叩き祈願をしたとのことです。

(6)灌漑施設

  1. 新池(反復池)と逆水パイプライン
     昭和30年(1955年)代初め、春日でも近郊地域における工場誘致に伴い住民の多くが勤労者として働きに出つつありました。現在、田植えは4月下旬から5月上旬頃に行われていますが、当時は6月に田植えを行うのが通例で、親戚等との“結”により人出不足をお互いに助け合いながら籾まきから苗取り・田植えまでを行っていた家が多くありました。
     その頃、日照りが続いて田植えが出来ない年が続き、昭和39年(1964年)は6月になっても雨ら降らず溜池には水がなく、田植えが出来ない圃場や、植えた苗が枯れてしまい、止む無く近郊地域から苗を譲り受け再度田植えをするという事態まで発生しました。このため、今後の農業(米作り)に不安をいだき、水の必要性を改めて思い知らされました。
     このような中、節水はもちろん、溜池の改修整備に併せ逆水のパイプライン敷設が検討されました。この結果、昭和52年(1977年)に水田反復利用施設(新池、パイプライン工事、用地代等¥40,383,100、県・町補助、東神商事寄付、関西電力の芳谷池線下補償、借入金等で)が目出度く完成しました。このパイプライン敷設のお陰で、日照りが続いてもほとんど水の心配がなくなりました。
  2. 地下水の利用
     地下水ポンプは逆水パイプライン敷設以前の昭和49年(1974年)頃に、水の確保のため野田道の中央当たりの横に地下水をポンプアップし利用して来ました。地下水はおおよそ地下100メートル余りから汲み上げていますが、金気がひどいため維持が大変です。なお、ポンプアップに係る電気代、草の根広場東端の地下水ポンプの増設については、それぞれ両ゴルフ場のご厚意をいただいています。
  3. 溜池の管理
     春日の溜池は、どれも人工的に作られたものであるため、永年の経過により土手がずれたり水漏れしたり、樋がダメになったり等で、その時々に必要に応じてはがね打ちや樋管工事等の改修を行って来ました。また、互池(仲間の池)は改修の後、村池(区の池)に変更して来ました。なお、人家付近の溜池はどれも防火用水の役目を担っています。