はじめに

 我が故郷下山の所在する水口町も、平成の大合併にちなみ平成16年(2004年)10月に5町が合併し、甲賀市が誕生いたしました。伴谷地区においては、市制施行を記念し、伴谷公民館の事業として「伴谷の歴史」が編集され、さらには伴谷地区11区の各区もそれぞれの「区の歴史」を編纂し後世に残してはどうかということになり、当時(平成17年度)の区長会で賛同し、編纂に取組むこととなりました。幸いにして、下山区では、水口郷土史会のメンバー(それぞれが歴史に興味をお持ちの方々14名)がおられましたので、その方々を主体として取組んでいただく事になりました。
 下山は、過去にも先人が刊書発行をされているとおり、史跡に富んだ歴史ある土地柄です。しかしながら、何分にも短い編纂期間(2年間)であったことや、また、慣れないメンバーでの取組みであったため、決して十分な内容とは言えないかもしれませんが、これからの時代、新しい下山を築いていただくための参考資料になればと願っています。今後、さらに区の活動を活性化させ、伝統ある下山区にし、下山区の住民であることに誇りを持ち、地域の発展や活性化に努めなければならないと思います。
 これからも、区の役員さんをはじめ関係各位により、定期的に「区の歴史」が追加更新されることを願うものです。

平成19年(2007年)3月
平成17年度 下山区長 伴 兼利

沿革

1.古代
 気の遠くなるような昔の話になりますが、私たちの住むこの日本列島に人間が住むようになったのは、今から15万年から16万年前からだと言うことが最近の調査で分かってきています。でも、この滋賀県や甲賀市にもその頃から人が住んでいたかと言うとそうではありません。ただ、わが国の特定された地域でその形跡が発見されている、と言うのが現在の実情です。

下山の先祖?
 ところで、15万年の昔どころか、1万年、いや、もっと大きく近づいて2千年くらいの昔からこの土地にも人が住むようになり始め、農地を拓いたり籾の種を蒔いていたようだとの資料や記録が出てきています。

垂仁天皇の時代
 確かな史実資料を得ずして歴史は語れませんが、甲賀郡志によれば、当地域の場合、現在の野洲市の三上から野洲川に沿う形でだんだんと川上に拓かれてきて湖南市の菩提寺や当市の柏木、伴谷、貴生川、水口の方向に、果ては土山町の大野から鮎河へと拓かれていったであろうと語っています。しかし、残念ながらその頃の下山のことはまったく不明です。でも、おそらくその頃からこの土地にも人が住みはじめ、ここを『しもやま』とは呼ばないにしても、生活を営む人、言うなれば私たち下山の先祖と呼べる人が発生していたのかもしれません。

鑵子塚古墳
ところで、この私たちの集落を含めてもう少し広く大きな地域を視野に入れて眺めてみると、少しこの頃の資料や文献が出てきます。その一つとして、今日の積水化学工業の敷地の中に鑵子塚古墳と呼んでいる古墳が東西に二基保存されています。古墳とは、大和時代にその地方の有力者や豪族を葬る墓として大変流行したとのことですので、例えば現在の水口町の一円とさらには湖南市の野洲川より北側にあたる旧岩根村、加えて土山町の旧大野村等を治めていたとされる甲賀臣、もしくはもう少し時期を経てからこの地域を統括したと言われた豪族の佐々貴(狭々貴とも書く)山君の一族である山直と言う名の郷長の墓ではないだろうかと言われています。誰の墓とは今もって分かっていませんが、いずれにしても今から1500年前後の昔に作られた墓であり、また通称引坊山と呼ぶ私たちの集落に最も近い場所に葬られていることからすると、案外この地域一帯は当時の要人や豪族達の活動の一大拠点であったのかもしれません。

日吉神社
 さて、この私たちの集落に何らかの形として現われ、そして長い歳月残されてきているのが日吉神社です。実は、当神社は、明治の以前は十善神社と呼んでいたのですが、明治元年に時の政府の指示で日吉神社と改称させられました。この神社が天暦2年(948年)に勧請鎮座したとの記録がありますので、おそらくその頃から何がしかの小さな集落に住む人たちの信仰の対象として祀りをしてこられたものと思われます。

下山の地名と山直郷
 それにしても、これまでのところ“しもやま”と言う集落の名称や地名が、まだ正式に出てきていませんが、この頃からぼつぼつと「下山」と呼ばれ出したのではないかと考えられます。すなわち、当地は、この当時山直という郷長が治めていたと言うことは前にも述べたとおりですが、そのころ別に山三郷という呼び名が出てきます。この三郷の意味は、現在の大字山、伴中山と春日、そして下山の三つの郷を指しているのですが、その当時大字山の場合を上山と呼び、伴中山と春日の場合は中山と呼びました。下山の場合は、現在と同じように下山と呼んでいたようです。こうして、それぞれの地名を上、中、下と分けて付けた理由は、この三集落を東西に縦断する主要河川(現在の思い川)の流域の上流になる大字山集落を上、中流に位置する伴中山を中、下流に位置する下山を下としました。なお、それぞれ上、中、下の次に山を付けたのは、当時の郷長である山直の「山」を付けたものと考えられます。このようにして、上山郷、中山郷、下山郷というそれぞれの地名郷名をこのころから使っていたようです。ただし、これの文献資料としては、元徳3年(1331年)の注進目録という今日の公文書のようなものに「下山郷」という地名が甲賀郡志に出てきます。おそらく、下山の地名が資料として公式に出てきて残っているのは、この目録書が初めてのようですが、それより随分以前からこの下山の名前は名乗られていたに違いありません。これとは別に、下山以外の山や伴中山それに春日の現在の名称は、中世以降に分離や統合、あるいは改称されたものです。春日は、明治6年までは畑とよんでいました。また、八田の場合、今は同じ地域内(伴谷地域)であっても、当時は岩根郷に属していました。

暮らしの様子
この辺で、お互いに今の暮らしぶりと、このころ(奈良時代から平安にかけて)の暮らしぶりを比較してみたいと思います。もちろん下山の人の暮らしの記録など残っていませんので、歴史書の中でいろいろと調べた結果となります。おおむねこの頃の農民で裕福な人は、掘っ立て柱で作った家に住んでいましたが、農民の大部分はまだ竪穴住居に住んでいました。農民の食事は、普通一日二食で米に粟と稗を混ぜて食して、麻の衣服をま家族構成としては、現代と違って平均的には三つくらいの小家族(房中)が集まって平均25~30人ぐらいの家族となっています。当時は、これを一戸として戸籍を作っていました。もちろん全部が一軒の家に住んでいるのではなく、数軒の家に分かれて住んでいたようです。

税の実態
 庶民は、この頃からすでに税を納めていました。税といっても、現在のようにお金でなく品物や労役です。当時は、口分田といって成年男女一人ずつに1~2反の田んぼが与えられていましたが、農民はその田んぼから1反(10アール)当たり「二束二把」といって今日の米に換算して10キログラムぐらいの米を納めていました。例えば、成人家族の構成員が15人であれば、それぞれの口分田から反当り10キログラム、すなわち150キログラムとなり、家族あわせた口分田が2町(2ヘクタール)あれば、200キログラムの米を納めることになります。ちなみに、その当時の米の収穫量は、現在の五分の一ぐらいしか獲れなかったようです。その他に麻や絹あるいは果物など、その土地の産物なるものを別に納めなければなりません。そして、これらの税を取り立てるための「計帳」という台帳が作られていました。まだその上に成年男子については、一年間に60日以内、無償の労務作業に従事しなければなりませんでした。また、これら成人になって与えられた口分田は、本人が死亡すれば没収となります。私たちの大昔の先祖は、このように苦労を重ねて生き抜いてきたようです。