はじめに
我が故郷下山の所在する水口町も、平成の大合併にちなみ平成16年(2004年)10月に5町が合併し、甲賀市が誕生いたしました。伴谷地区においては、市制施行を記念し、伴谷公民館の事業として「伴谷の歴史」が編集され、さらには伴谷地区11区の各区もそれぞれの「区の歴史」を編纂し後世に残してはどうかということになり、当時(平成17年度)の区長会で賛同し、編纂に取組むこととなりました。幸いにして、下山区では、水口郷土史会のメンバー(それぞれが歴史に興味をお持ちの方々14名)がおられましたので、その方々を主体として取組んでいただく事になりました。
下山は、過去にも先人が刊書発行をされているとおり、史跡に富んだ歴史ある土地柄です。しかしながら、何分にも短い編纂期間(2年間)であったことや、また、慣れないメンバーでの取組みであったため、決して十分な内容とは言えないかもしれませんが、これからの時代、新しい下山を築いていただくための参考資料になればと願っています。今後、さらに区の活動を活性化させ、伝統ある下山区にし、下山区の住民であることに誇りを持ち、地域の発展や活性化に努めなければならないと思います。
これからも、区の役員さんをはじめ関係各位により、定期的に「区の歴史」が追加更新されることを願うものです。
平成19年(2007年)3月
平成17年度 下山区長 伴 兼利
沿革
1.古代
気の遠くなるような昔の話になりますが、私たちの住むこの日本列島に人間が住むようになったのは、今から15万年から16万年前からだと言うことが最近の調査で分かってきています。でも、この滋賀県や甲賀市にもその頃から人が住んでいたかと言うとそうではありません。ただ、わが国の特定された地域でその形跡が発見されている、と言うのが現在の実情です。
下山の先祖?
ところで、15万年の昔どころか、1万年、いや、もっと大きく近づいて2千年くらいの昔からこの土地にも人が住むようになり始め、農地を拓いたり籾の種を蒔いていたようだとの資料や記録が出てきています。
垂仁天皇の時代
確かな史実資料を得ずして歴史は語れませんが、甲賀郡志によれば、当地域の場合、現在の野洲市の三上から野洲川に沿う形でだんだんと川上に拓かれてきて湖南市の菩提寺や当市の柏木、伴谷、貴生川、水口の方向に、果ては土山町の大野から鮎河へと拓かれていったであろうと語っています。しかし、残念ながらその頃の下山のことはまったく不明です。でも、おそらくその頃からこの土地にも人が住みはじめ、ここを『しもやま』とは呼ばないにしても、生活を営む人、言うなれば私たち下山の先祖と呼べる人が発生していたのかもしれません。
鑵子塚古墳
ところで、この私たちの集落を含めてもう少し広く大きな地域を視野に入れて眺めてみると、少しこの頃の資料や文献が出てきます。

その一つとして、今日の積水化学工業の敷地の中に鑵子塚古墳と呼んでいる古墳が東西に二基保存されています。
古墳とは、大和時代にその地方の有力者や豪族を葬る墓として大変流行したとのことですので、例えば現在の水口町の一円とさらには湖南市の野洲川より北側にあたる旧岩根村、加えて土山町の旧大野村等を治めていたとされる甲賀臣、もしくはもう少し時期を経てからこの地域を統括したと言われた豪族の佐々貴(狭々貴とも書く)山君の一族である山直と言う名の郷長の墓ではないだろうかと言われています。誰の墓とは今もって分かっていませんが、いずれにしても今から1500年前後の昔に作られた墓であり、また通称引坊山と呼ぶ私たちの集落に最も近い場所に葬られていることからすると、案外この地域一帯は当時の要人や豪族達の活動の一大拠点であったのかもしれません。
日吉神社
さて、この私たちの集落に何らかの形として現われ、そして長い歳月残されてきているのが日吉神社です。実は、当神社は、明治の以前は十善神社と呼んでいたのですが、明治元年に時の政府の指示で日吉神社と改称させられました。この神社が天暦2年(948年)に勧請鎮座したとの記録がありますので、おそらくその頃から何がしかの小さな集落に住む人たちの信仰の対象として祀りをしてこられたものと思われます。
下山の地名と山直郷
それにしても、これまでのところ“しもやま”と言う集落の名称や地名が、まだ正式に出てきていませんが、この頃からぼつぼつと「下山」と呼ばれ出したのではないかと考えられます。すなわち、当地は、この当時山直という郷長が治めていたと言うことは前にも述べたとおりですが、そのころ別に山三郷という呼び名が出てきます。この三郷の意味は、現在の大字山、伴中山と春日、そして下山の三つの郷を指しているのですが、その当時大字山の場合を上山と呼び、伴中山と春日の場合は中山と呼びました。下山の場合は、現在と同じように下山と呼んでいたようです。こうして、それぞれの地名を上、中、下と分けて付けた理由は、この三集落を東西に縦断する主要河川(現在の思い川)の流域の上流になる大字山集落を上、中流に位置する伴中山を中、下流に位置する下山を下としました。なお、それぞれ上、中、下の次に山を付けたのは、当時の郷長である山直の「山」を付けたものと考えられます。このようにして、上山郷、中山郷、下山郷というそれぞれの地名郷名をこのころから使っていたようです。ただし、これの文献資料としては、元徳3年(1331年)の注進目録という今日の公文書のようなものに「下山郷」という地名が甲賀郡志に出てきます。おそらく、下山の地名が資料として公式に出てきて残っているのは、この目録書が初めてのようですが、それより随分以前からこの下山の名前は名乗られていたに違いありません。これとは別に、下山以外の山や伴中山それに春日の現在の名称は、中世以降に分離や統合、あるいは改称されたものです。春日は、明治6年までは畑とよんでいました。また、八田の場合、今は同じ地域内(伴谷地域)であっても、当時は岩根郷に属していました。
暮らしの様子
この辺で、お互いに今の暮らしぶりと、このころ(奈良時代から平安にかけて)の暮らしぶりを比較してみたいと思います。もちろん下山の人の暮らしの記録など残っていませんので、歴史書の中でいろいろと調べた結果となります。

おおむねこの頃の農民で裕福な人は、掘っ立て柱で作った家に住んでいましたが、農民の大部分はまだ竪穴住居に住んでいました。
農民の食事は、普通一日二食で米に粟と稗を混ぜて食して、麻の衣服をま家族構成としては、現代と違って平均的には三つくらいの小家族(房中)が集まって平均25~30人ぐらいの家族となっています。当時は、これを一戸として戸籍を作っていました。もちろん全部が一軒の家に住んでいるのではなく、数軒の家に分かれて住んでいたようです。
税の実態
庶民は、この頃からすでに税を納めていました。税といっても、現在のようにお金でなく品物や労役です。当時は、口分田といって成年男女一人ずつに1~2反の田んぼが与えられていましたが、農民はその田んぼから1反(10アール)当たり「二束二把」といって今日の米に換算して10キログラムぐらいの米を納めていました。例えば、成人家族の構成員が15人であれば、それぞれの口分田から反当り10キログラム、すなわち150キログラムとなり、家族あわせた口分田が2町(2ヘクタール)あれば、200キログラムの米を納めることになります。ちなみに、その当時の米の収穫量は、現在の五分の一ぐらいしか獲れなかったようです。その他に麻や絹あるいは果物など、その土地の産物なるものを別に納めなければなりません。そして、これらの税を取り立てるための「計帳」という台帳が作られていました。まだその上に成年男子については、一年間に60日以内、無償の労務作業に従事しなければなりませんでした。また、これら成人になって与えられた口分田は、本人が死亡すれば没収となります。私たちの大昔の先祖は、このように苦労を重ねて生き抜いてきたようです。
2.中世
日本の歴史を分類した中で、古代と中世だけでも1056年間という長い年月に及んでいます。その間日本の国の中では色々と大きな出来事が起こり、私たちの耳や目に残っているものだけでも数え切れないほどあります。しかし、さて「下山ではその間一体何が起こっていたのか。」になると、これはあまりにも資料が乏しいので不明な事ばかりです。
下山は、お城とお寺の大国でした

でも、前述したように下山は、お城とお寺が大変たくさんあったことは明らかです。
下山城に津山城、下山西城に下山北城、迎山東城、迎山西城、それに下山城のための城屋敷。お寺については、善隆院に光明院、中山寺など。これらのお城やお寺は、中世に築城もしくは建立建立されたもののようですが、その全ての城や寺が今では跡地として残っているのみです。お城といっても、私たちがとっさにイメージをするような「石垣を高く築いた上に天守閣が大きくそびえている」というようなお城ではなく、土塁で周囲を積み上げて敵の攻略を防ぐことを第一義に考えて造った城郭、言うなれば要塞施設だったようです。これらのお城も下山城以外の城については、そのルーツは不明となってしまっています。お寺についての善隆院と光明院は、今日の九品寺を創建した後に廃寺とされたようです。中山寺については、どうやら戦火によって焼失したようです。
伴太郎左衛門という人
「下山城」が出てきましたので、ここで下山の歴史上の人物として登場してくるのが伴太郎左衛門景秀(播磨守とも云う)となります。伴太郎左衛門景秀は、今日の甲賀町櫟野の出身の人だと言われておりますが、延慶2年(1309年)11月、下山に来て下山城を築き、下山や中山(伴中山)及び畑(春日)ならびに上山(山)の一部をそれぞれ領したと言われています。そのうえ、太郎左衛門家は、この下山城を根城として代々各方面に勢力を及ぼし、甲賀郡内で数ある領主の中の「甲賀五十三家」の一家に数えられるとともに、「甲賀二十一士」といって鈎の陣という戦では特に殊勲を収めた武士達に並び、なおそのうえに柏木の御厨と言われる伴谷や柏木地域の領有地内を取り仕切っていた「御三家」、すなわち山中氏、美濃部氏に並んでの伴氏であったようです。この下山城は、太郎左衛門景秀が築城して累代数々の業績や戦功を収めてまいりましたが、天正10年(1582年)6月、かの有名な本能寺の変にて織田信長に仕えていた当時の伴太郎左衛門資宗は信長と共に戦死を遂げてしまいました。この時、下山城の城主でもあった資宗が戦死を遂げたために下山城も滅城しました。これによって下山城郭を継続維持して来た年数は273年間という長きに及んだことになります。(注:伴太郎左衛門の名は代々襲名しておりますので下山城を築城した太郎左衛門景秀と本能寺の変で戦死を遂げた太郎左衛門資宗は何代か後の太郎左衛門となります。その間の太郎左衛門のことについての詳細はわかりかねます。)その後、中世の終局を迎えるとともに甲賀五十三家、甲賀二十一士等、いわゆる甲賀武士達の活躍の場が少なくなるのに合わせたように伴一族の名も時折出てくる程度となり、やがて近世(江戸期)という次の時代へと移ってきています。
3.近世・近代
さて、江戸時代に入ってから徳川幕府の定める東海道五十三の宿駅、水口宿の誕生によって宿場の町も大きく発展してきて、また下山を含めて宿場を取り巻く村々も良きにつけ、悪しきにつけて大きな影響を受けながら歩んできたようです。
ここにその一つとして水口宿の周辺農村としての下山村が、特に迷惑を被った例としてあげなければならないのが「助郷」という制度でした。
公人(役人)等が訪ねて来たり、旅をするについて宿駅から宿駅へ送り届けるための人足や馬を調達、提供しなければならないという役目に下山も指定されたわけです。資料によれば、これは役人のみにとどまらず、後には民間人まで輸送しなければならなくなったようですし、この助郷は、『水口宿から1里(4キロメートル)以内の村に29村を指定していた』とありますが、その実態は2里もその上も離れた村にまで及んでいたことが分かってきています。これをもう少し深く調べた結果、「助郷高五百五十五石」というランクに定められていたというこの下山村には相当厳しい奉仕が強いられていたようで、記録に出ている他の村の実態(下山には記録が無いため)から比較、換算してみると少なくとも1年間に500人以上の人足と400匹を上回る馬を調達、提供していたことになります。驚くべきことに、堂村(大字山の一部)や畑村(春日)では、助郷としての提供用の馬を飼育(堂村12匹、畑村20匹)していたようです。泉村や北脇村にもその記録はあるようですが、下山村の場合はこれも不明です。しかし、提供する馬を下山で飼育していなかったとしても当然その役目は逃れられず、代金に替えて提供していたはずです。
いずれにしても、これは調べれば調べるほどに過酷な制度であったことが分かってきますし、限られた紙面では語りきれませんので、助郷制度についてはこの辺にとどめておきます。
岡山城と水口城とは別の城です
ところで、下山の歴史を語ればよいのに何故水口のお城のことまで…?といぶかる人があるかも解りませんが、案外と岡山城と水口城(碧水城とも言います)とは別の城であることを知らなかったり、また勘違いをしている人がありそうですので、老婆心ながら記しておきたいと思います。それともう一点、今は亡き郷土史研究家の中西義孝先生の遺稿集「甲賀歴史秘話」の本の中に、岡山城主長束家と伴氏との間には姻戚関係があった、との記述が見られるため、これも下山に関わる事柄であるとの思いからあえて著書名のみを紹介しておきます。
さて、岡山城とは現在の古城ヶ丘の頂上部に天正13年(1585年)に築かれた城で、初代の城主は中村一氏という人でしたが、三代目の城主長束正家が若くしてかの関ヶ原の合戦に参戦して敗れたために逃げ帰り、あちらこちら隠れ歩いたあげくに自害してしまいました。これが慶長5年(1600年)、正家が39歳と言う若さでした。
これによって岡山城は廃城となった訳ですが就任してきた城主は合わせて3代(3人)で年数にして15年という城自体が短い命だったことになります。なお、これの余話としてですが、若くして自殺した正家の正室であった栄子姫はこれ又36歳の若さで、その時臨月と言う身重の体でした。栄子姫は主を失った嘆きと悲しみ、それと周辺の迫害から、これ又さまよい歩いているうちに、とあるあばら家にかくまってもらい、そこで男子を産み落しましたが、心身の疲労からくる産後の肥立ちが悪く、あえなく栄子姫もここで最後を迎えることになってしまったのです。岡山城落城にまつわる悲話として、今も語り継がれています。
次に水口城ですが、この城の所在地が、現在の水口高校のグラウンドとして利用されている場所で、現在ではその当時の城の建物の一部分として角櫓と言う建物が最近になって復元され、これが「水口城資料館」として活用されています。

水口城は岡山城落城の後、寛永10年(1633年)に築城されましたが、その本丸等は当時の代官の宿泊施設として充てていたようです。
その後、徐々に城の必要度が薄れてきたために部分的なとり壊しが行われ、明治の初期(7年)には完全に廃城となっています。この間における城主、藩主の変遷や交替はずい分多く、また長きにわたり複雑であって書き切れませんが、良く知られている加藤氏(11代続く)等であったことに本稿ではとどめておきます。なお、ここで私達下山に住む者として知っておくべきことは、本来なれば他の村々がそうであるように、この下山村も水口藩に属して水口の領主の支配を受けるべきであるのに、別の、しかも複数の藩主による支配(分割知行)を受けていたという事実があります。詳しいいきさつはわかりませんが、興味ある事柄として記しておきます。
天保一揆には下山の村人も
天保13年(1842年)10月14日から3日間にわたったあの有名な天保一揆(天保三上一揆)は、当時の公儀検地に対する不満を訴え、甲賀や野洲郡の農民1万2~3千人が蜂起した一揆ですが、その首唱者とされる11人の江戸送りを始め多数の科人を出しています。

色々と調べた結果、この下山村からも54人の人が過料(罰金)を取られています。
過料を取られるということは、一揆に参加したという事であり、下山の科人54人と言うことはおそらく下山の全所帯の人がこの一揆に加わっていたことを意味しています。結果としてこの一揆は、農民側が勝利を収めたことになりますが、しかしこの勝利を収めるについては、獄死をはじめ多数の犠牲者を出し、当時の下山の人たちも一致団結のもと、死物狂いで闘ってこられたに違いありません。このことについての詳しい事は「過去の出来事」(80頁)をご覧ください。
近世から近代における統治者や行政区と下山
江戸時代から今日にいたるまでのこの方、統治者や行政区画が時代とともに変わってきています。

これをいちいち記述しょうと思うと大変複雑ですので、下記の通り一覧表としてまとめてみました。概ね次の通りになります。
| 年号・年次 | 領・藩または行政団体名 | 下山の呼称 |
| 江戸時代 (1624年~1870年) | 他に領・藩主として20余人 ―他に領・藩主として20余人にわたって交代や分割をして支配してきていますが、これについては割愛します。― | 下山村郷 または 下山村 |
| 明治4年(1871年) | 水口県(7月) 大津県(11月)(廃藩置県 実施) | 下山村 |
| 明治5年 (1872年) | 滋賀県甲賀郡第二区(府県制実施により滋賀県となり、なお区制施行により行政区を構成) ※この時期、庄屋、名主、年寄りを廃し、正副戸長を置く。 ―下山、八田、畑、伴中山、上、下、 堂、松尾、岩根、朝国、下田の11村― | 下山村 |
| 明治12年 (1879年) | 滋賀県甲賀郡春日村外5ヶ村(郡制施行) ※郡役所開庁 ―春日村外5ヶ村とは八田、春日、 伴中山、山、下田の6村をいう― | 下山村 |
| 明治22年 (1889年) | 滋賀県甲賀郡伴谷村(町村制実施) ※村役場設置 ―下田を除く5村で― | 大字下山 |
| 昭和30年 (1955年) | 滋賀県甲賀郡水口町(4町の合併により町に) ―水口、伴谷、柏木、貴生川― | 大字下山 |
| 平成16年 (2004年) | 滋賀県甲賀市水口町(5町合併により甲賀市に) ―水口、土山、甲賀、甲南、信楽― | 下山 |
地誌
1.位置
下山は、甲賀市の北西部にあって、なおその西方は湖南市の岩根、朝国に隣接しています。東方は市内の伴中山に接し、南は同じく市内の泉、北脇に、そうして北は丘陵、渓流を境に市内の春日及び湖南市の岩根にも接する位置にあります。東西に走る国道1号線を400メートルの南に控え、これから発する主要支線として県道泉日野線が泉の国道伴谷口から下山を経て、伴中山、山へと通じています。
2.地勢
下山は、源流が市内の松尾に始まり湖南市の岩根へと流れる一級河川の思い川が東西に貫流し、これに沿う南北の高地部に家屋が長く配され、低部は耕地として活用されています。周辺は、丘陵地もしくは山林に囲まれていましたが、近時の頻繁な土地開発によって北部山間部を残して、南部の大半は工業地帯に準ずるような形態に変わってきています。
それでは、下山の面積はと観ると甲賀郡志に示されるように「東西18丁(1丁は109メートル)、南北に18丁」とあり、地形としては西方に鋭角を示す概ね三角形を呈しているところか192.5ヘクタール(推定)となります。なお、明治38年(1905年)の下山の覚え帳によると、当時の世帯72戸に対し田66町歩余、畑6町3反歩、山林91町3反歩とあり、合わせると163町歩余となり、他に宅地や道路、河川等の公共地を加えると、下山の地積は、ほぼ上記の推定面積に一致してきます。
ところが、現在ではこのうち、さつきが丘や積水化学工業などのように下山の地名を離れて新たな地名を称したり、あるいは別の地域に編入をされるなどの他、東西の広野台のように同じ大字下山であっても、独立した行政自治区を形成、運営されている地域があり、これらを勘案すると相応の面積をここから減ずることになります。
3.地質
昭和28年(1953年)頃、思い川の曲部改修工事が行われた際、田んぼの底のヌリ状の粘土塊の中から大きな貝の化石を見つけて不思議に思ったことがありますが、それもそのはず、今から270万年の昔はこの地域一帯は、のちに甲賀湖と呼ばれることとなった古い琵琶湖であったようです。数々の自然現象を経て現在の位置に琵琶湖が移動したのだと言われていますが、なる程とうなずけるものがあります。このためか地層は複雑ですが、下山の場合概ね埴壌土質です。
地字
1.地字
| 域 | 小字名 | 小谷名 | 垣内 | 旧組 | 現在組 |
| 北側 | 北山 | 五郎兵衛谷、芳ヶ谷 | 中ノ垣内 | 1組 | 1組 |
| 前田 | 内屋敷、砂町、光明寺 | ||||
| 下の前 | 金助谷、スルガ | 2組 | |||
| 大谷 | (本谷、狸谷、横峰ノ谷)⇒総山 | 3組 | 2組 | ||
| 枝ノ谷、蛇谷、熊ヶ谷、オボロギ | 4組 | ||||
| 細佐 | どんど、一向迫、瀧ヶ坪、在尾 | 西ノ垣内 | 5組 | 3組 | |
| 溝畑、野上 | |||||
| 牛飼塚 | 地蔵ノ元、狐ガ谷 | 6組 | 4組 | ||
| 細工谷 | |||||
| 広野 | 秀川原、若狭、狐塚 | ||||
| 丈ヶ谷、境ガ谷、新田 | |||||
| 南側 | 大沢 | 西市場 | |||
| 二反田 | |||||
| 引坊 | 平ツバ、頭子 | 7組 | 5組 | ||
| 市場 | 笹ヶ谷、山屋敷、駒ノ口、大ハゲ | 8組 | 6組 | ||
| 柳瀬 | 明塚、ヨウジロウ谷 | 中市場 | 9組 | 7組 | |
| ジュンカイ、赤坂 | 10組 | ||||
| カンベイ谷、ハタホコ | 11組 | 8組 | |||
| 迎山 | 深谷、クロダ、山出、良願 | 迎山 | 12組 | 9組 | |
| クホン谷、フタツヤ、ジュゴノ下 | |||||
| 平藪、菖蒲谷 | 13組 | ||||
| 計 | 旧組=13組(組頭)※5小組長 | 5垣内 | 14組 | 9組 | |
※昔、大字泉の西方の一部が下山の所属であったとの噂を聞いていましたが、ここにその事項を「郡志」の記事の中で発見しましたので紹介しておきます。
西野(廣野)=柏木村大字泉の西方にあり、東西四町五十間、南北六町を有す。同地は元伴谷村大字下山の所属なりしが、明治八年地祖改正の時、柏木村泉の所有に帰し爾来三戸を移して、農耕に着手す、現時田一丁四反歩、畑一丁余歩、其の他林地、竹薮などとなる。この地方一帯を古来『廣野』と称し其の名(海道記)にみゆ ~甲賀郡志ヨリ
2.苗字
| 苗字 | 戸数 | 苗字 | 戸数 | 苗字 | 戸数 | 苗字 | 戸数 | 苗字 | 戸数 |
| 伴 | 11 | 伊藤 | 5 | 村田 | 3 | 高田 | 1 | 中川 | 1 |
| 林田 | 8 | 臼井 | 5 | 井上 | 1 | 高橋 | 1 | 岡田 | 1 |
| 竹内 | 7 | 菊田 | 5 | 小川 | 1 | 谷 | 1 | 大田 | 1 |
| 傍田 | 7 | 佐井 | 4 | 平林 | 1 | 谷口 | 1 | ||
| 浅野 | 5 | 津田 | 4 | 杉本 | 1 | 富永 | 1 |
3.家紋からみた下山の苗字の関係
日本の苗字の数は、30万にのぼると言われ、家紋も2万種以上におよぶと言われます。苗字(姓)を持つ氏族には、共通の先祖があり、家紋は氏族の標章です。苗字と家紋は切れない関係でもあり、苗字(姓)の由来はふるさとの地名に因んでいます。以下、下山の各戸の家紋について調べてみました。
| 家紋 | 苗字(姓) | 戸数 | 由緒 |
| 「丸に細違い鷹の羽」 | 浅野 | 5 | 肥後の菊地一族が保元時代(1156~1158年)より用いておられ、足利時代には稲毛、美馬氏、太田氏、福井氏、倉光氏、中村氏が用いて、徳川時代には大名と旗本で百二十家におよぶ。播州赤穂の浅野家もこの家紋である。 |
| 大田 | 1 | ||
| 「月に州浜」 | 臼井 | 5 | 州浜紋は、藤原道兼の後裔である小田氏の代表家紋で、常陸が本拠である。北関東に多く、内山、園田、市場、本田、大屋、岩上、津布久、阿久津、宍戸、筑波、柿岡、岡見氏等、巴紋の分布と一致しており宇都宮と同族関係にある。 |
| 「丸に梅鉢」 | 杉本 | 1 | 天満宮を信仰する武士の間に広まり、松任氏、筒井氏、平氏と戦国時代には近江、美濃の豪族に多く、美濃の斉藤氏と徳川時代には前田氏、松平氏、小出氏、相良氏の各氏が用いる。 |
| 富永 | 1 | ||
| 「三つ目結」 | 小川 | 1 | 目結のユイは「結ぶ」意で、共同作業や助け合いをするのを「結い」と言うのと同じである。源平盛衰記には佐々木高網のひたたれは、三つ目結を用いたとある。目結紋は近江源氏の代表家紋となっていた。 |
| 「丸に橘」 | 林田 | 7 | 元明天皇時で最古の家紋?橘氏が浮杯、室町時代には薬師寺、小寺両氏と戦国期には、九州の柴田氏、徳川時代には伊井、久世、黒田、松平の諸氏で紋章の種類は六十余種ある。橘紋は、橘氏の代表家紋であるが、藤原氏に多い。 |
| 村田 | 1 | ||
| 菊田 | 2 | ||
| 井上 | 1 | ||
| 「丸の立沢潟」 | 林田 | 1 | 毛利元就公がオモダカ紋である。オモダカは勝つ草といって武士の戦陣における縁起から用いられた。椎名氏、豊臣秀次のほか尾張三河の水野、木下、土井、酒井、松平氏等が用いる。 |
| 「木瓜に二つ引き」 | 伴 | 9 | 木瓜紋を用いた氏族は、主に日下部氏と紀氏と伴氏である。尾張の織田氏も木瓜紋で、越前の朝倉氏から受け継ぐ。伴氏は道臣命から出ており、代々大伴氏と称し淳和天皇の時に氏を伴氏とあらためた。伴家の子孫は三河に土着し、その支族は近江甲賀郡へも広まり、大原、毛枚、大鳥居、山岡、笹山、伴氏と称し、織田氏の武将滝川一益も大原での伴一族の木瓜紋である。 |
| 谷口 | 1 | ||
| 伊藤 | 1 | ||
| 谷 | 1 | ||
| 竹内 | 1 | ||
| 「丸に木瓜」 | 傍田 | 7 | |
| 津田 | 4 | ||
| 菊田 | 3 | ||
| 伊藤 | 4 | ||
| 竹内 | 1 | ||
| 佐井 | 4 | ||
| 村田 | 2 | ||
| 平林 | 1 | ||
| 高田 | 1 | ||
| 「丸木瓜に二つ引き」 | 伴 | 2 | |
| 竹内 | 5 | ||
| 高橋 | 1 | ||
| 「丸に二つ柏」 | 中川 | 1 | 柏紋は、ふつう葉を象ったものであり、鎌倉時代から用いられていた。この紋を使われている部族は、山内、蜂須賀、中川、牧野の四家であり、神社系で伊勢神宮の久志本氏、熱田大宮司の千秋氏、吉備津宮の太守氏等。 |
| 「丸に四つ菱目」 | 岡田 | 1 | この紋様は、鎌倉時代に佐々木氏に使われ、「蒙古襲来絵巻」によると、九州の竹崎氏が「三つ目結いに吉文字」少弐氏が「四つ目結」を用いている。佐々木氏、椎屋氏なども用いている。 |











以上から家紋別に苗字をあげてみますと、主な家紋は浅野家が鷹の羽、臼井家が州浜、林田家が橘、竹内家が丸木瓜二つ引き、傍田家ほか9家が丸に木瓜、伴家が木瓜に二つ引きとなり、特に木瓜紋3件で下山全体の6割になりますが、この下山に早くから移り住み着いたことから多くを占めることが分かります。また、家別にみると苗字が違っていても近隣で同じ紋様であることが分かりました。
神社
祭神
日吉神社の主祭神は、大山咋神命です。この神さまは、大津市坂本の日吉大社にお祀りされている7つの神さま(七座)のひとつで、農林守護の神さまです。五穀豊穣や家内安全をお守りしてくださる神さまと言われています。太古の昔から野のもの、山のものを作り発展してきた日本ですから、祭神大山咋神命のご加護をいただいて豊作を祈り、そのご加護に感謝して大切にお祀りされてきました。
また、大山咋神は農林守護の神さまであることから、全国には日吉神社と称する神社がたくさんありますし、神社名は異なっても各地でお祀りされています。
神社名の改称
実は、下山の日吉神社は明治元年までは十善神社という名前でした。十善神社は、別当として西養寺という寺をもち、神仏習合の社寺になっていました。
明治元年、神仏習合廃止令により名称を日吉神社と改められました。

この日吉神社いう神社名になったいわれやいきさつは定かではありませんが、前述のように日吉大社の七座の1つの神さまであったからだと思われます。また、別当の西養寺がどこにあったのか、現存しているのか廃寺になったのかも不詳です。
昭和50年、社務所を新築するため東側に敷地を広げられた際、山の斜面から「かめ」に入ったお骨が出てきましたが、そこに墓地があったのか、寺があったのか興味深いところですし、境内の東側には中山寺と称する寺があったという説も伝わっています。
鎮座の時期
大山咋神命がこの地に鎮座され、お祀りが始まったのは西暦948年です。醍醐天皇の流れをくむ村上天皇が即位されていた天暦2年11月で平安時代の初期の頃にあたります。この地を下山と言ったのか、何人位の人達が暮らしていたのか記録はありませんが、千年以上の昔であることに歴史の重みを感じます。
八幡神社
神武天皇から数えて15代目にあたる應神天皇をお祀りしています。長久2年(1041年)に当村小字前田に鎮座されたとありますが、場所は不明です。
合祀の理由
貴船神社と八幡神社は、日吉神社とは別の場所にあったと思われますが、昔からその由緒が不詳でした。境内や社殿の維持管理、それぞれのお宮さんごとに祭典を行うことなどが大変であったようで、明治41年(1908年)に当時の氏子の皆さんが相談され、現在の日吉神社に合祀されました。なお、その許可札があり明治42年7月10日に合祀祭があったと記録されています。現在では2月に貴船神社祭、9月に八幡祭として祭典が行われています。
摂社 ※日吉神社の縁故神の意
【嬉社】
玉依姫命がお祀りされています。この神さまは、神武天皇の母君にあたる方だと言われています。社殿は旧貴船社を移築してお祀りされています。
【稲荷神社】
祭神は稲誉魂命で、以前、当村字柳瀬、通称稲荷山といわれるあたりに鎮座されていたものを明治41年日吉神社境内に移してお祀りされています。
【宗忠神社】
この神社の祭神は教派神道の一つで、その教祖といわれる黒住宗忠をお祀りしています。黒住教というのは天照皇大神を宇宙創造、万物化育の神として人間はすべてをこの神に託すという教えを説いておりまして、この教派の本部は岡山県尾上にあります。
実は、この祭神をお祀りしていた祠(ほこら)は、九品寺前(県道沿い)の現駐車場の位置にありましたが、ちょうど明治14年(1882年)に下山学校をここに建設するなどのため、現在の日吉神社境内に遥拝所を移設し奉ったものです。
神道系の霊を寺院の境内にお祀りしていた史実、そしてまた明治の初期にはここから神社の境内に移し変えなければならなくなった事実などを知るとき、当時の神仏習合から離合に至るについて、時の政府の介入や、こだわりのほども併せ伺うことができます。なお、日吉神社では、毎年、冬至祭の日に宗忠神社の祭礼が併せて行われます。
ところで、宗忠神社にまつわる伝説的なものとして長刀踊りというのがあります。この長刀踊りは嘉永年間(1848年~1854年)より明治初年まで続いた行事と伝えられています。当時、九品寺前に祀られていた宗忠神社から、氏神さま(日吉神社)の春の祭日に村中の13才から25才までの男子が武者装束で長刀を振り、掛け声勇ましく、鐘や太鼓に合わせて踊り歩き、氏神さまの境内でも長刀踊りを奉納したとされ、その距離は十町(1キロメートル余)の道中であったと伝えられています。
日吉神社の小宮さんの裏手に木製のなぎなたが納められていますが、もしかしたら当時の長刀踊りに使われたものかも知れません。
拝殿
瓦葺入母屋造の立派な拝殿です。大きさは十六尺七寸四方縁三尺とありますから、およそ5、6メートルの正方形の建物です。大正15年4月に建立され、当時のお金で1,500円を要しました。さらに、材木はすべて氏子の方々の献木によって建てられたとのことです。また、付帯工事として拝殿前の石垣(高さ3.3メートル余 長さ22メートル余)が築造されました。
記録によると拝殿の竣工式には餅まきや素人宮すもう、謡曲などが盛大に奉納されたということです。当時をしのぶものとして拝殿東側に額がかかっています。
寺院
1.能徳山 九品寺
九品寺は、お寺の資料によると応永20年(1413年)「応永23年との俗説もあります」伴氏菩提のため僧隆堯法院の弟子、堯誉隥眞上人により創建されました。創建当時は、天台宗のお寺であったと言われていますが、後に浄土宗に改宗されたとのことです。その後、180年以上経過した慶長年間(1596年~1615年)に本堂及び庫裡が全焼しました。
幸い山門は火災から免れ創建当時の面影を残し、本堂や庫裡が新しくなった現在貴重な建造物と言えます。山門の梁の上に置いた受け木の蟇股が当時の建築を物語っていると思われます。墓地には「文禄元年」(1592年)の年号銘入りの小さな石塔と、さらにもう一基は「慶長14年」(1609年)の年号銘入りの石塔が残っています。
さて、全焼した本堂は江戸時代の貞享3年(1686年)僧見達上人によって再建されました。
なお、その頃の九品寺は、浄土宗の安土の浄厳院の末寺であったようです。什物に寺歴の大要及び法名を記した「万人講寄附帳」、「寛文13年」(1673年)の銘入りの柄香炉、「享保11歳丙午9月」(1726年)の香炉、「安永5年11月」(1776年)銘の鰐口などがあります。
江戸時代も末期の文久3年(1863年)、僧文誉了遵上人が私財を投じて庫裡を再建されました。
明治22年(1889年)に鐘楼が新しく建てられ、その年の5月に檀徒の菊田重吉氏が梵鐘を寄進されました。さらに、明治23年には総本山知恩院の末寺に変わって今日に至っています。九品寺の歴代住職の尊名は明らかではありませんが、大正から昭和の時代にかけては、第32世の白木孝準上人でした。孝準上人は、在任中、数々と寺院の興隆に尽くされましたが、昭和44年(1969年)2月に94歳の長寿をまっとうされ、その後任として嫡孫の孝伯上人が2ヶ年程継がれています。
さて、孝準上人は、住職在任中の昭和8年(1933年)に五重相伝を施されましたが、その後諸事情により、任期中再度の五重法会を行うことなく、在任末期には受講経験者(受者)が皆無になるという異常な事態をまねきましたものの、次々世大田丈光上人によって、昭和48年(1973年)11月に実に40年振りの五重を第1回目として興され、丈光上人の在任期間中に第2回(昭和52年)、第3回(平成3年)と五重相伝を施され、合計262名の受者を育てて伝授されています。
ところで、第34世大田丈光上人は、昭和46年(1971年)8月、日野町三十坪誓光寺より兼務住職として当寺院に迎え、昭和47年(1972年)4月には上人の入山式が行われています。
丈光上人の在職中には、境内の東西墓地の整備(昭和55年から同60年)が行われたり、懸案となっていた本堂の全面改築工事の偉業も、住職、役員、壇中共々の協力のもとに昭和63年(1988年)11月3日の落慶により成し遂げられています。
この改築工事は、実に9千万円に及ぶ事業費によって近江八幡市の建築業乾産業に委ねられました。引き続いて、7年後の平成7年(1995年)2月には、これまた130年昔に再建されたとの記録の残る庫裡の全面改築工事が施されて竣工しています。庫裡改築竣工の翌年の平成8年(1996年)11月には第35世大田光彦上人(丈光上人の御子息)の九品寺住職就任の晋山式が執り行われています。
惜しくも平成18年(2006年)2月27日には、25年間にわたって九品寺の住職を務められ、檀徒の育成と寺院興隆のために多大の功績を収められた第34世大田丈光上人が逝去されました。
ここに、丈光上人をはじめ既にお亡くなりになられた歴代住職上人のご冥福を心からお祈り申し上げます。


2.黄檗宗 瑞岩寺
このお寺は、山号を霊松山と号し、下山の前田111番地内に3間×3間の本堂を有し、本尊として聖徳太子の御作とされる十一面観世音菩薩を祀っていましたが、本堂の改築を昭和33年(1958年)に終えたにもかかわらず、繁茂する樹木に本堂の周囲を覆われ、加えて無住の時期を迎えたため本堂の朽ちが激しく、改築後三十数年にもかかわらず風雨から本尊を護りきれず維持管理困難となり、止むなく一時期は九品寺に仮安置させてもらっていましたが、平成6年(1994年)から同宗門である。
ある近江八幡市岩倉の福寿寺に安置方を依頼して以後継続して瑞岩寺の檀家によって祭祀されています。瑞岩寺は、文明年間(1469年~1486年)伴家五家の祈願寺として草創されましたが、最終の専任住職としての第10世神田為教和尚が昭和19年(1944年)享年61歳の若さで寂滅された後、20年間程遺族によって管理されていましたが、これも湖南市の方に移住されたために無住となった訳です。現在の住職は、栗東市安養寺に所在する万年寺の住職仙石龍園和尚を瑞岩寺の兼務住職として迎えています。

なお、当寺は、甲賀郡観音霊場三十三ヶ寺のうち第二十五番の霊場として尊崇されている由緒あるお寺です。
仏像としては本尊の他に毘沙門天、阿弥陀如来、釈迦如来、誕生仏、四天王の内二体像その他が合祀されているのと併せて寺宝として大般若経六百巻、十六善神掛軸、開山六眉禅師頂相のほか什物が数点保管されています。
3.廃寺となった寺院
下山の沿革、中世の項(5頁)に記されるように下山にはたくさんのお寺がありましたが、そのほとんどが廃寺となっています。調査を行なった結果、次の寺院が廃寺となっていることが諸記録の中から浮かび上がってきました。
中山寺
貞元元年(976年)に慈恵大師(良源)という高名な僧が開いた寺院で、現在の林田永太郎氏と伊藤正氏宅の裏側の山林に位置していたようです。
貞元元年の年次は、伴中山の三十八社や智禅院の草創と同時期で、関わった僧も同一人物であるところから、これらの社寺との関連が大きく伺われます。中山寺はどうやら戦国の動乱期(1500年頃)に戦火に遭遇したように推察できますのと宗派は天台宗であったようです。
光明寺 ※郡志では光明院
お寺のあった場所は、林田登氏宅から林田治氏宅にかけての裏山に位置したと伝えられており、宗派は真言宗であったようです。
甲賀郡志によれば、伴景秀が浄土宗九品寺を創建ののち自ら廃寺とした、とありますので、随分昔の寺院であったことが伺われます。
善隆院
お寺のあった場所は、臼井満夫氏宅裏の山林と伝えられます。その跡地からは、最近まで石仏がよく出土したようです。このお寺の創建時期は分かりませんが、天台宗のお寺であったそうで、九品寺の草創と同時にこのお寺も廃寺とされたようで、本尊の阿弥陀如来は九品寺に合祀されており、またこのお寺にあったとされる天蓋等も当時は相当立派なもので、九品寺に収められています。
福蔵寺
このお寺は、中市場、現在の林田昌典氏の作業場位置にありました。(県道沿い)このお寺の宗派は、禅宗永源寺派で往時は4間×3間の立派な本堂に本尊観世音菩薩像が安置されていました。天正年間(1570年代)伴氏一族の祈願寺として創建され、住職を置いて近郷近在の信仰を集めており、明治2年(1869年)に前述の本堂を再建されましたが、信徒が5戸であったため寺の維持に困難をきたし、明治11年(1878年)10月に本山永源寺を離退して伴氏の祈願寺である瑞岩寺に合祀して廃寺とされました。
文教
「寺子屋」という言葉は、私達のよく耳にする言葉ですが、昔の子どもの教育施設です。この下山にも実は寺子屋が天保2年(1831年)から九品寺と瑞岩寺の二ヶ所で開かれていました。
生徒のことを「寺子」と呼んでいましたが、その寺子の先生は、お寺の僧侶が主に携わっておられました。そうしてもう一つ言えることは、寺子屋は今日の私塾のようなもので決して制度的なものではなく、言うなればお寺の僧侶のアルバイトであったようです。この意味から今日で言う「学資」も必要でしたが、下山の場合、他の在所と比較しても寺子の数は案外と多かったように見受けられます。貧しい農家の土地柄でしたが、この下山は親や子の向学心が強かったのでしょうか。
以上の寺子屋が明治6年(1873年)までの43年間も続けられましたが、これに前後するように近代国家に目覚めた明治政府が、明治5年(1872年)に「学制」を頒布したり、太政官布告を発布して「国民は皆教育を受けなければならない」という主旨の制度化にむけて動き始めました。この趣意に沿うようにして明治7年(1874年)3月、伴中山の智禅院で下山村と伴中山村との連合で余力学校が開設されました。この余力学校が、明治14年(1881年)までの7年間にわたって続けられましたが、翌年この余力学校から下山が分離して下山学校を設立しました。分離した理由は十分なことは分かりませんが、学舎が荒廃してきたことや下山側の通学距離の問題ではなかったでしょうか。
その伴中山村から分離してできた下山学校が、現在、九品寺の前にある県道沿いの駐車場、ここに建っていた以前の、そしてもう二つ前の下山公民館(後には下山事務所とも呼んでいた)の建物でした。その建物が明治14年(1881年3月に竣工していますが、そこで新しく下山学校が始められています。その後、文部省や地方の制度の変更や介入によって色々と修正が加えられてきたようですが、以後明治37年(1904年)に伴谷尋常小学校が伴中山の現在地に決められて、建設されるまでの間23年間ほど下山学校が運営されてきています。明治37年(1904年)3月、ようやくここにきて一村一学校の時代をむかえたことになりました。
以下これらの参考となる資料を添えますと次のようです。


天保2年(1831年)から明治6年(1873年)までの間、九品寺と瑞岩寺で寺子屋がひらかれましたが、年次ごとの寺子の数は一部を除いて不明です。推定するのに九品寺と瑞岩寺あわせて30人前後の寺子数だったようです。なお、寺子の男女比をみると、どうやら未だ当時は圧倒的に男子が多かったようです。習い事の中心は、読み方と書き方(習字)であったようです。

明治7年(1874年)から伴中山の智禅院で伴中山と下山の連合の餘力学校が開かれています。
これとは先に「学制」が明治5年(1872年)に発布されています。
伴中山の餘力学校と分かれて下山学校を設立開業されたのが、明治14年(1881年)3月でした。

下山学校児童の増減と就学率
| 年代 | 学齢児童数 | 就学児童数 | 就学率 | |||||
| 男 | 女 | 計 | 男 | 女 | 計 | |||
| 明治14年 | 26 | 38 | 64 | 18 | 8 | 26 | 40.6 | |
| 明治15年 | 27 | 35 | 62 | 21 | 19 | 40 | 64.5 | |
| 明治16年 | 28 | 35 | 63 | 23 | 19 | 42 | 66.7 | |
| 明治17年 | 26 | 34 | 60 | 23 | 22 | 45 | 75.0 | |
| 明治18年 | 35 | 38 | 73 | 24 | 23 | 47 | 64.3 | |
| 明治19年 | 36 | 40 | 76 | 23 | 12 | 35 | 46.0 | |
この当時の学年編成は、学校を上下二等に分けて
下等小学(6~9歳)4年制
上等小学(10~13歳)4年制
とし、上下とも8級に分けられ、入学すると8級から始まり6ヶ月ごとに1級づつ進級して最上級の1級に進むことになっていました。したがって、上、下小学校を履修するには8年を要したことになりますが、実態はどうだったのでしょうか。対象児童の数や就学率においても今日から比較すると「驚き」です。


右の教科書の写真は、明治16年~同18年頃に小学校で使われた修身の教科書です。(黄色のウラ表紙の本が小学上等4年2級の教科書、下の絵入りの本が小学下等3年3級の教科書です。)

下山学校当時に使われていたことになります。
城跡
1.下山城跡
四方土塁の典型的な城館で南と東に空堀がある。北の一段下も郭(曲輪)の一部で井戸跡があり、虎口部分に土塁がみられる。城から北100mの地点に、下山城屋敷と呼ばれる館跡があり、北と西に土塁が残っている。