はじめに

 我が故郷下山の所在する水口町も、平成の大合併にちなみ平成16年(2004年)10月に5町が合併し、甲賀市が誕生いたしました。伴谷地区においては、市制施行を記念し、伴谷公民館の事業として「伴谷の歴史」が編集され、さらには伴谷地区11区の各区もそれぞれの「区の歴史」を編纂し後世に残してはどうかということになり、当時(平成17年度)の区長会で賛同し、編纂に取組むこととなりました。幸いにして、下山区では、水口郷土史会のメンバー(それぞれが歴史に興味をお持ちの方々14名)がおられましたので、その方々を主体として取組んでいただく事になりました。
 下山は、過去にも先人が刊書発行をされているとおり、史跡に富んだ歴史ある土地柄です。しかしながら、何分にも短い編纂期間(2年間)であったことや、また、慣れないメンバーでの取組みであったため、決して十分な内容とは言えないかもしれませんが、これからの時代、新しい下山を築いていただくための参考資料になればと願っています。今後、さらに区の活動を活性化させ、伝統ある下山区にし、下山区の住民であることに誇りを持ち、地域の発展や活性化に努めなければならないと思います。
 これからも、区の役員さんをはじめ関係各位により、定期的に「区の歴史」が追加更新されることを願うものです。

平成19年(2007年)3月
平成17年度 下山区長 伴 兼利

沿革

1.古代
 気の遠くなるような昔の話になりますが、私たちの住むこの日本列島に人間が住むようになったのは、今から15万年から16万年前からだと言うことが最近の調査で分かってきています。でも、この滋賀県や甲賀市にもその頃から人が住んでいたかと言うとそうではありません。ただ、わが国の特定された地域でその形跡が発見されている、と言うのが現在の実情です。

下山の先祖?
 ところで、15万年の昔どころか、1万年、いや、もっと大きく近づいて2千年くらいの昔からこの土地にも人が住むようになり始め、農地を拓いたり籾の種を蒔いていたようだとの資料や記録が出てきています。

垂仁天皇の時代
 確かな史実資料を得ずして歴史は語れませんが、甲賀郡志によれば、当地域の場合、現在の野洲市の三上から野洲川に沿う形でだんだんと川上に拓かれてきて湖南市の菩提寺や当市の柏木、伴谷、貴生川、水口の方向に、果ては土山町の大野から鮎河へと拓かれていったであろうと語っています。しかし、残念ながらその頃の下山のことはまったく不明です。でも、おそらくその頃からこの土地にも人が住みはじめ、ここを『しもやま』とは呼ばないにしても、生活を営む人、言うなれば私たち下山の先祖と呼べる人が発生していたのかもしれません。

鑵子塚古墳
 ところで、この私たちの集落を含めてもう少し広く大きな地域を視野に入れて眺めてみると、少しこの頃の資料や文献が出てきます。

その一つとして、今日の積水化学工業の敷地の中に鑵子塚古墳と呼んでいる古墳が東西に二基保存されています。

古墳とは、大和時代にその地方の有力者や豪族を葬る墓として大変流行したとのことですので、例えば現在の水口町の一円とさらには湖南市の野洲川より北側にあたる旧岩根村、加えて土山町の旧大野村等を治めていたとされる甲賀臣、もしくはもう少し時期を経てからこの地域を統括したと言われた豪族の佐々貴(狭々貴とも書く)山君の一族である山直と言う名の郷長の墓ではないだろうかと言われています。誰の墓とは今もって分かっていませんが、いずれにしても今から1500年前後の昔に作られた墓であり、また通称引坊山と呼ぶ私たちの集落に最も近い場所に葬られていることからすると、案外この地域一帯は当時の要人や豪族達の活動の一大拠点であったのかもしれません。

日吉神社
 さて、この私たちの集落に何らかの形として現われ、そして長い歳月残されてきているのが日吉神社です。実は、当神社は、明治の以前は十善神社と呼んでいたのですが、明治元年に時の政府の指示で日吉神社と改称させられました。この神社が天暦2年(948年)に勧請鎮座したとの記録がありますので、おそらくその頃から何がしかの小さな集落に住む人たちの信仰の対象として祀りをしてこられたものと思われます。

下山の地名と山直郷
 それにしても、これまでのところ“しもやま”と言う集落の名称や地名が、まだ正式に出てきていませんが、この頃からぼつぼつと「下山」と呼ばれ出したのではないかと考えられます。すなわち、当地は、この当時山直という郷長が治めていたと言うことは前にも述べたとおりですが、そのころ別に山三郷という呼び名が出てきます。この三郷の意味は、現在の大字山、伴中山と春日、そして下山の三つの郷を指しているのですが、その当時大字山の場合を上山と呼び、伴中山と春日の場合は中山と呼びました。下山の場合は、現在と同じように下山と呼んでいたようです。こうして、それぞれの地名を上、中、下と分けて付けた理由は、この三集落を東西に縦断する主要河川(現在の思い川)の流域の上流になる大字山集落を上、中流に位置する伴中山を中、下流に位置する下山を下としました。なお、それぞれ上、中、下の次に山を付けたのは、当時の郷長である山直の「山」を付けたものと考えられます。このようにして、上山郷、中山郷、下山郷というそれぞれの地名郷名をこのころから使っていたようです。ただし、これの文献資料としては、元徳3年(1331年)の注進目録という今日の公文書のようなものに「下山郷」という地名が甲賀郡志に出てきます。おそらく、下山の地名が資料として公式に出てきて残っているのは、この目録書が初めてのようですが、それより随分以前からこの下山の名前は名乗られていたに違いありません。これとは別に、下山以外の山や伴中山それに春日の現在の名称は、中世以降に分離や統合、あるいは改称されたものです。春日は、明治6年までは畑とよんでいました。また、八田の場合、今は同じ地域内(伴谷地域)であっても、当時は岩根郷に属していました。

暮らしの様子
 この辺で、お互いに今の暮らしぶりと、このころ(奈良時代から平安にかけて)の暮らしぶりを比較してみたいと思います。もちろん下山の人の暮らしの記録など残っていませんので、歴史書の中でいろいろと調べた結果となります。

 おおむねこの頃の農民で裕福な人は、掘っ立て柱で作った家に住んでいましたが、農民の大部分はまだ竪穴住居に住んでいました。

 農民の食事は、普通一日二食で米に粟と稗を混ぜて食して、麻の衣服をま家族構成としては、現代と違って平均的には三つくらいの小家族(房中)が集まって平均25~30人ぐらいの家族となっています。当時は、これを一戸として戸籍を作っていました。もちろん全部が一軒の家に住んでいるのではなく、数軒の家に分かれて住んでいたようです。

税の実態
 庶民は、この頃からすでに税を納めていました。税といっても、現在のようにお金でなく品物や労役です。当時は、口分田といって成年男女一人ずつに1~2反の田んぼが与えられていましたが、農民はその田んぼから1反(10アール)当たり「二束二把」といって今日の米に換算して10キログラムぐらいの米を納めていました。例えば、成人家族の構成員が15人であれば、それぞれの口分田から反当り10キログラム、すなわち150キログラムとなり、家族あわせた口分田が2町(2ヘクタール)あれば、200キログラムの米を納めることになります。ちなみに、その当時の米の収穫量は、現在の五分の一ぐらいしか獲れなかったようです。その他に麻や絹あるいは果物など、その土地の産物なるものを別に納めなければなりません。そして、これらの税を取り立てるための「計帳」という台帳が作られていました。まだその上に成年男子については、一年間に60日以内、無償の労務作業に従事しなければなりませんでした。また、これら成人になって与えられた口分田は、本人が死亡すれば没収となります。私たちの大昔の先祖は、このように苦労を重ねて生き抜いてきたようです。

2.中世
 日本の歴史を分類した中で、古代と中世だけでも1056年間という長い年月に及んでいます。その間日本の国の中では色々と大きな出来事が起こり、私たちの耳や目に残っているものだけでも数え切れないほどあります。しかし、さて「下山ではその間一体何が起こっていたのか。」になると、これはあまりにも資料が乏しいので不明な事ばかりです。

下山は、お城とお寺の大国でした

でも、前述したように下山は、お城とお寺が大変たくさんあったことは明らかです。

 下山城に津山城、下山西城に下山北城、迎山東城、迎山西城、それに下山城のための城屋敷。お寺については、善隆院に光明院、中山寺など。これらのお城やお寺は、中世に築城もしくは建立建立されたもののようですが、その全ての城や寺が今では跡地として残っているのみです。お城といっても、私たちがとっさにイメージをするような「石垣を高く築いた上に天守閣が大きくそびえている」というようなお城ではなく、土塁で周囲を積み上げて敵の攻略を防ぐことを第一義に考えて造った城郭、言うなれば要塞施設だったようです。これらのお城も下山城以外の城については、そのルーツは不明となってしまっています。お寺についての善隆院と光明院は、今日の九品寺を創建した後に廃寺とされたようです。中山寺については、どうやら戦火によって焼失したようです。

伴太郎左衛門という人
 「下山城」が出てきましたので、ここで下山の歴史上の人物として登場してくるのが伴太郎左衛門景秀(播磨守とも云う)となります。伴太郎左衛門景秀は、今日の甲賀町櫟野の出身の人だと言われておりますが、延慶2年(1309年)11月、下山に来て下山城を築き、下山や中山(伴中山)及び畑(春日)ならびに上山(山)の一部をそれぞれ領したと言われています。そのうえ、太郎左衛門家は、この下山城を根城として代々各方面に勢力を及ぼし、甲賀郡内で数ある領主の中の「甲賀五十三家」の一家に数えられるとともに、「甲賀二十一士」といって鈎の陣という戦では特に殊勲を収めた武士達に並び、なおそのうえに柏木の御厨と言われる伴谷や柏木地域の領有地内を取り仕切っていた「御三家」、すなわち山中氏、美濃部氏に並んでの伴氏であったようです。この下山城は、太郎左衛門景秀が築城して累代数々の業績や戦功を収めてまいりましたが、天正10年(1582年)6月、かの有名な本能寺の変にて織田信長に仕えていた当時の伴太郎左衛門資宗は信長と共に戦死を遂げてしまいました。この時、下山城の城主でもあった資宗が戦死を遂げたために下山城も滅城しました。これによって下山城郭を継続維持して来た年数は273年間という長きに及んだことになります。(注:伴太郎左衛門の名は代々襲名しておりますので下山城を築城した太郎左衛門景秀と本能寺の変で戦死を遂げた太郎左衛門資宗は何代か後の太郎左衛門となります。その間の太郎左衛門のことについての詳細はわかりかねます。)その後、中世の終局を迎えるとともに甲賀五十三家、甲賀二十一士等、いわゆる甲賀武士達の活躍の場が少なくなるのに合わせたように伴一族の名も時折出てくる程度となり、やがて近世(江戸期)という次の時代へと移ってきています。

3.近世・近代
 さて、江戸時代に入ってから徳川幕府の定める東海道五十三の宿駅、水口宿の誕生によって宿場の町も大きく発展してきて、また下山を含めて宿場を取り巻く村々も良きにつけ、悪しきにつけて大きな影響を受けながら歩んできたようです。
 ここにその一つとして水口宿の周辺農村としての下山村が、特に迷惑を被った例としてあげなければならないのが「助郷」という制度でした。
 公人(役人)等が訪ねて来たり、旅をするについて宿駅から宿駅へ送り届けるための人足や馬を調達、提供しなければならないという役目に下山も指定されたわけです。資料によれば、これは役人のみにとどまらず、後には民間人まで輸送しなければならなくなったようですし、この助郷は、『水口宿から1里(4キロメートル)以内の村に29村を指定していた』とありますが、その実態は2里もその上も離れた村にまで及んでいたことが分かってきています。これをもう少し深く調べた結果、「助郷高五百五十五石」というランクに定められていたというこの下山村には相当厳しい奉仕が強いられていたようで、記録に出ている他の村の実態(下山には記録が無いため)から比較、換算してみると少なくとも1年間に500人以上の人足と400匹を上回る馬を調達、提供していたことになります。驚くべきことに、堂村(大字山の一部)や畑村(春日)では、助郷としての提供用の馬を飼育(堂村12匹、畑村20匹)していたようです。泉村や北脇村にもその記録はあるようですが、下山村の場合はこれも不明です。しかし、提供する馬を下山で飼育していなかったとしても当然その役目は逃れられず、代金に替えて提供していたはずです。
 いずれにしても、これは調べれば調べるほどに過酷な制度であったことが分かってきますし、限られた紙面では語りきれませんので、助郷制度についてはこの辺にとどめておきます。

岡山城と水口城とは別の城です
 ところで、下山の歴史を語ればよいのに何故水口のお城のことまで…?といぶかる人があるかも解りませんが、案外と岡山城と水口城(碧水城とも言います)とは別の城であることを知らなかったり、また勘違いをしている人がありそうですので、老婆心ながら記しておきたいと思います。それともう一点、今は亡き郷土史研究家の中西義孝先生の遺稿集「甲賀歴史秘話」の本の中に、岡山城主長束家と伴氏との間には姻戚関係があった、との記述が見られるため、これも下山に関わる事柄であるとの思いからあえて著書名のみを紹介しておきます。   

 さて、岡山城とは現在の古城ヶ丘の頂上部に天正13年(1585年)に築かれた城で、初代の城主は中村一氏という人でしたが、三代目の城主長束正家が若くしてかの関ヶ原の合戦に参戦して敗れたために逃げ帰り、あちらこちら隠れ歩いたあげくに自害してしまいました。これが慶長5年(1600年)、正家が39歳と言う若さでした。
 これによって岡山城は廃城となった訳ですが就任してきた城主は合わせて3代(3人)で年数にして15年という城自体が短い命だったことになります。なお、これの余話としてですが、若くして自殺した正家の正室であった栄子姫はこれ又36歳の若さで、その時臨月と言う身重の体でした。栄子姫は主を失った嘆きと悲しみ、それと周辺の迫害から、これ又さまよい歩いているうちに、とあるあばら家にかくまってもらい、そこで男子を産み落しましたが、心身の疲労からくる産後の肥立ちが悪く、あえなく栄子姫もここで最後を迎えることになってしまったのです。岡山城落城にまつわる悲話として、今も語り継がれています。
 次に水口城ですが、この城の所在地が、現在の水口高校のグラウンドとして利用されている場所で、現在ではその当時の城の建物の一部分として角櫓と言う建物が最近になって復元され、これが「水口城資料館」として活用されています。

水口城は岡山城落城の後、寛永10年(1633年)に築城されましたが、その本丸等は当時の代官の宿泊施設として充てていたようです。

その後、徐々に城の必要度が薄れてきたために部分的なとり壊しが行われ、明治の初期(7年)には完全に廃城となっています。この間における城主、藩主の変遷や交替はずい分多く、また長きにわたり複雑であって書き切れませんが、良く知られている加藤氏(11代続く)等であったことに本稿ではとどめておきます。なお、ここで私達下山に住む者として知っておくべきことは、本来なれば他の村々がそうであるように、この下山村も水口藩に属して水口の領主の支配を受けるべきであるのに、別の、しかも複数の藩主による支配(分割知行)を受けていたという事実があります。詳しいいきさつはわかりませんが、興味ある事柄として記しておきます。

天保一揆には下山の村人も
 天保13年(1842年)10月14日から3日間にわたったあの有名な天保一揆(天保三上一揆)は、当時の公儀検地に対する不満を訴え、甲賀や野洲郡の農民1万2~3千人が蜂起した一揆ですが、その首唱者とされる11人の江戸送りを始め多数の科人を出しています。

色々と調べた結果、この下山村からも54人の人が過料(罰金)を取られています。

過料を取られるということは、一揆に参加したという事であり、下山の科人54人と言うことはおそらく下山の全所帯の人がこの一揆に加わっていたことを意味しています。結果としてこの一揆は、農民側が勝利を収めたことになりますが、しかしこの勝利を収めるについては、獄死をはじめ多数の犠牲者を出し、当時の下山の人たちも一致団結のもと、死物狂いで闘ってこられたに違いありません。このことについての詳しい事は「過去の出来事」(80頁)をご覧ください。

近世から近代における統治者や行政区と下山

江戸時代から今日にいたるまでのこの方、統治者や行政区画が時代とともに変わってきています。

これをいちいち記述しょうと思うと大変複雑ですので、下記の通り一覧表としてまとめてみました。概ね次の通りになります。

年号・年次領・藩または行政団体名下山の呼称
江戸時代 (1624年~1870年)他に領・藩主として20余人
―他に領・藩主として20余人にわたって交代や分割をして支配してきていますが、これについては割愛します。―
下山村郷 または 下山村
明治4年(1871年)水口県(7月) 大津県(11月)(廃藩置県 実施)下山村
明治5年 (1872年)滋賀県甲賀郡第二区(府県制実施により滋賀県となり、なお区制施行により行政区を構成)
※この時期、庄屋、名主、年寄りを廃し、正副戸長を置く。 ―下山、八田、畑、伴中山、上、下、 堂、松尾、岩根、朝国、下田の11村―
下山村
明治12年 (1879年)滋賀県甲賀郡春日村外5ヶ村(郡制施行)
※郡役所開庁 ―春日村外5ヶ村とは八田、春日、 伴中山、山、下田の6村をいう―
下山村
明治22年 (1889年)滋賀県甲賀郡伴谷村(町村制実施)
※村役場設置 ―下田を除く5村で―
大字下山
昭和30年 (1955年)滋賀県甲賀郡水口町(4町の合併により町に)
―水口、伴谷、柏木、貴生川―
大字下山
平成16年 (2004年)滋賀県甲賀市水口町(5町合併により甲賀市に)
―水口、土山、甲賀、甲南、信楽―
下山

地誌

1.位置
 下山は、甲賀市の北西部にあって、なおその西方は湖南市の岩根、朝国に隣接しています。東方は市内の伴中山に接し、南は同じく市内の泉、北脇に、そうして北は丘陵、渓流を境に市内の春日及び湖南市の岩根にも接する位置にあります。東西に走る国道1号線を400メートルの南に控え、これから発する主要支線として県道泉日野線が泉の国道伴谷口から下山を経て、伴中山、山へと通じています。

2.地勢
 下山は、源流が市内の松尾に始まり湖南市の岩根へと流れる一級河川の思い川が東西に貫流し、これに沿う南北の高地部に家屋が長く配され、低部は耕地として活用されています。周辺は、丘陵地もしくは山林に囲まれていましたが、近時の頻繁な土地開発によって北部山間部を残して、南部の大半は工業地帯に準ずるような形態に変わってきています。
 それでは、下山の面積はと観ると甲賀郡志に示されるように「東西18丁(1丁は109メートル)、南北に18丁」とあり、地形としては西方に鋭角を示す概ね三角形を呈しているところか192.5ヘクタール(推定)となります。なお、明治38年(1905年)の下山の覚え帳によると、当時の世帯72戸に対し田66町歩余、畑6町3反歩、山林91町3反歩とあり、合わせると163町歩余となり、他に宅地や道路、河川等の公共地を加えると、下山の地積は、ほぼ上記の推定面積に一致してきます。
 ところが、現在ではこのうち、さつきが丘や積水化学工業などのように下山の地名を離れて新たな地名を称したり、あるいは別の地域に編入をされるなどの他、東西の広野台のように同じ大字下山であっても、独立した行政自治区を形成、運営されている地域があり、これらを勘案すると相応の面積をここから減ずることになります。

3.地質
 昭和28年(1953年)頃、思い川の曲部改修工事が行われた際、田んぼの底のヌリ状の粘土塊の中から大きな貝の化石を見つけて不思議に思ったことがありますが、それもそのはず、今から270万年の昔はこの地域一帯は、のちに甲賀湖と呼ばれることとなった古い琵琶湖であったようです。数々の自然現象を経て現在の位置に琵琶湖が移動したのだと言われていますが、なる程とうなずけるものがあります。このためか地層は複雑ですが、下山の場合概ね埴壌土質です。

地字

1.地字

小字名小谷名垣内旧組現在組
北側北山五郎兵衛谷、芳ヶ谷中ノ垣内1組1組
前田内屋敷、砂町、光明寺
下の前金助谷、スルガ2組
大谷(本谷、狸谷、横峰ノ谷)⇒総山3組2組
枝ノ谷、蛇谷、熊ヶ谷、オボロギ4組
細佐どんど、一向迫、瀧ヶ坪、在尾西ノ垣内5組3組
溝畑、野上
牛飼塚地蔵ノ元、狐ガ谷6組4組
細工谷
広野秀川原、若狭、狐塚
丈ヶ谷、境ガ谷、新田
南側大沢西市場
二反田
引坊平ツバ、頭子7組5組
市場笹ヶ谷、山屋敷、駒ノ口、大ハゲ8組6組
柳瀬明塚、ヨウジロウ谷中市場9組7組
ジュンカイ、赤坂10組
カンベイ谷、ハタホコ11組8組
迎山深谷、クロダ、山出、良願迎山12組9組
クホン谷、フタツヤ、ジュゴノ下
平藪、菖蒲谷13組
旧組=13組(組頭)※5小組長5垣内14組9組

※昔、大字泉の西方の一部が下山の所属であったとの噂を聞いていましたが、ここにその事項を「郡志」の記事の中で発見しましたので紹介しておきます。
西野(廣野)=柏木村大字泉の西方にあり、東西四町五十間、南北六町を有す。同地は元伴谷村大字下山の所属なりしが、明治八年地祖改正の時、柏木村泉の所有に帰し爾来三戸を移して、農耕に着手す、現時田一丁四反歩、畑一丁余歩、其の他林地、竹薮などとなる。この地方一帯を古来『廣野』と称し其の名(海道記)にみゆ ~甲賀郡志ヨリ

2.苗字

苗字戸数苗字戸数苗字戸数苗字戸数苗字戸数
11伊藤5村田3高田1中川1
林田8臼井5井上1高橋1岡田1
竹内7菊田5小川11大田1
傍田7佐井4平林1谷口1
浅野5津田4杉本1富永1

3.家紋からみた下山の苗字の関係
 日本の苗字の数は、30万にのぼると言われ、家紋も2万種以上におよぶと言われます。苗字(姓)を持つ氏族には、共通の先祖があり、家紋は氏族の標章です。苗字と家紋は切れない関係でもあり、苗字(姓)の由来はふるさとの地名に因んでいます。以下、下山の各戸の家紋について調べてみました。

家紋苗字(姓)戸数由緒
「丸に細違い鷹の羽」浅野5 肥後の菊地一族が保元時代(1156~1158年)より用いておられ、足利時代には稲毛、美馬氏、太田氏、福井氏、倉光氏、中村氏が用いて、徳川時代には大名と旗本で百二十家におよぶ。播州赤穂の浅野家もこの家紋である。
大田1
「月に州浜」臼井5 州浜紋は、藤原道兼の後裔である小田氏の代表家紋で、常陸が本拠である。北関東に多く、内山、園田、市場、本田、大屋、岩上、津布久、阿久津、宍戸、筑波、柿岡、岡見氏等、巴紋の分布と一致しており宇都宮と同族関係にある。
「丸に梅鉢」杉本1 天満宮を信仰する武士の間に広まり、松任氏、筒井氏、平氏と戦国時代には近江、美濃の豪族に多く、美濃の斉藤氏と徳川時代には前田氏、松平氏、小出氏、相良氏の各氏が用いる。
富永1
「三つ目結」小川1 目結のユイは「結ぶ」意で、共同作業や助け合いをするのを「結い」と言うのと同じである。源平盛衰記には佐々木高網のひたたれは、三つ目結を用いたとある。目結紋は近江源氏の代表家紋となっていた。
「丸に橘」林田7 元明天皇時で最古の家紋?橘氏が浮杯、室町時代には薬師寺、小寺両氏と戦国期には、九州の柴田氏、徳川時代には伊井、久世、黒田、松平の諸氏で紋章の種類は六十余種ある。橘紋は、橘氏の代表家紋であるが、藤原氏に多い。
村田1
菊田2
井上1
「丸の立沢潟」林田1 毛利元就公がオモダカ紋である。オモダカは勝つ草といって武士の戦陣における縁起から用いられた。椎名氏、豊臣秀次のほか尾張三河の水野、木下、土井、酒井、松平氏等が用いる。
「木瓜に二つ引き」9 木瓜紋を用いた氏族は、主に日下部氏と紀氏と伴氏である。尾張の織田氏も木瓜紋で、越前の朝倉氏から受け継ぐ。伴氏は道臣命から出ており、代々大伴氏と称し淳和天皇の時に氏を伴氏とあらためた。伴家の子孫は三河に土着し、その支族は近江甲賀郡へも広まり、大原、毛枚、大鳥居、山岡、笹山、伴氏と称し、織田氏の武将滝川一益も大原での伴一族の木瓜紋である。
谷口1
伊藤1
1
竹内1
「丸に木瓜」傍田7
津田4
菊田3
伊藤4
竹内1
佐井4
村田2
平林1
高田1
「丸木瓜に二つ引き」2
竹内5
高橋1
「丸に二つ柏」中川1 柏紋は、ふつう葉を象ったものであり、鎌倉時代から用いられていた。この紋を使われている部族は、山内、蜂須賀、中川、牧野の四家であり、神社系で伊勢神宮の久志本氏、熱田大宮司の千秋氏、吉備津宮の太守氏等。
「丸に四つ菱目」岡田1 この紋様は、鎌倉時代に佐々木氏に使われ、「蒙古襲来絵巻」によると、九州の竹崎氏が「三つ目結いに吉文字」少弐氏が「四つ目結」を用いている。佐々木氏、椎屋氏なども用いている。

 以上から家紋別に苗字をあげてみますと、主な家紋は浅野家が鷹の羽、臼井家が州浜、林田家が橘、竹内家が丸木瓜二つ引き、傍田家ほか9家が丸に木瓜、伴家が木瓜に二つ引きとなり、特に木瓜紋3件で下山全体の6割になりますが、この下山に早くから移り住み着いたことから多くを占めることが分かります。また、家別にみると苗字が違っていても近隣で同じ紋様であることが分かりました。

神社

祭神
 日吉神社の主祭神は、大山咋神命です。この神さまは、大津市坂本の日吉大社にお祀りされている7つの神さま(七座)のひとつで、農林守護の神さまです。五穀豊穣や家内安全をお守りしてくださる神さまと言われています。太古の昔から野のもの、山のものを作り発展してきた日本ですから、祭神大山咋神命のご加護をいただいて豊作を祈り、そのご加護に感謝して大切にお祀りされてきました。
 また、大山咋神は農林守護の神さまであることから、全国には日吉神社と称する神社がたくさんありますし、神社名は異なっても各地でお祀りされています。

神社名の改称
 実は、下山の日吉神社は明治元年までは十善神社という名前でした。十善神社は、別当として西養寺という寺をもち、神仏習合の社寺になっていました。

明治元年、神仏習合廃止令により名称を日吉神社と改められました。


 この日吉神社いう神社名になったいわれやいきさつは定かではありませんが、前述のように日吉大社の七座の1つの神さまであったからだと思われます。また、別当の西養寺がどこにあったのか、現存しているのか廃寺になったのかも不詳です。

 昭和50年、社務所を新築するため東側に敷地を広げられた際、山の斜面から「かめ」に入ったお骨が出てきましたが、そこに墓地があったのか、寺があったのか興味深いところですし、境内の東側には中山寺と称する寺があったという説も伝わっています。

鎮座の時期
 大山咋神命がこの地に鎮座され、お祀りが始まったのは西暦948年です。醍醐天皇の流れをくむ村上天皇が即位されていた天暦2年11月で平安時代の初期の頃にあたります。この地を下山と言ったのか、何人位の人達が暮らしていたのか記録はありませんが、千年以上の昔であることに歴史の重みを感じます。

八幡神社
 神武天皇から数えて15代目にあたる應神天皇をお祀りしています。長久2年(1041年)に当村小字前田に鎮座されたとありますが、場所は不明です。

合祀の理由
 貴船神社と八幡神社は、日吉神社とは別の場所にあったと思われますが、昔からその由緒が不詳でした。境内や社殿の維持管理、それぞれのお宮さんごとに祭典を行うことなどが大変であったようで、明治41年(1908年)に当時の氏子の皆さんが相談され、現在の日吉神社に合祀されました。なお、その許可札があり明治42年7月10日に合祀祭があったと記録されています。現在では2月に貴船神社祭、9月に八幡祭として祭典が行われています。

摂社 ※日吉神社の縁故神の意
【嬉社】
 玉依姫命がお祀りされています。この神さまは、神武天皇の母君にあたる方だと言われています。社殿は旧貴船社を移築してお祀りされています。

【稲荷神社】
 祭神は稲誉魂命で、以前、当村字柳瀬、通称稲荷山といわれるあたりに鎮座されていたものを明治41年日吉神社境内に移してお祀りされています。

【宗忠神社】
 この神社の祭神は教派神道の一つで、その教祖といわれる黒住宗忠をお祀りしています。黒住教というのは天照皇大神を宇宙創造、万物化育の神として人間はすべてをこの神に託すという教えを説いておりまして、この教派の本部は岡山県尾上にあります。
 実は、この祭神をお祀りしていた祠(ほこら)は、九品寺前(県道沿い)の現駐車場の位置にありましたが、ちょうど明治14年(1882年)に下山学校をここに建設するなどのため、現在の日吉神社境内に遥拝所を移設し奉ったものです。
 神道系の霊を寺院の境内にお祀りしていた史実、そしてまた明治の初期にはここから神社の境内に移し変えなければならなくなった事実などを知るとき、当時の神仏習合から離合に至るについて、時の政府の介入や、こだわりのほども併せ伺うことができます。なお、日吉神社では、毎年、冬至祭の日に宗忠神社の祭礼が併せて行われます。
 ところで、宗忠神社にまつわる伝説的なものとして長刀踊りというのがあります。この長刀踊りは嘉永年間(1848年~1854年)より明治初年まで続いた行事と伝えられています。当時、九品寺前に祀られていた宗忠神社から、氏神さま(日吉神社)の春の祭日に村中の13才から25才までの男子が武者装束で長刀を振り、掛け声勇ましく、鐘や太鼓に合わせて踊り歩き、氏神さまの境内でも長刀踊りを奉納したとされ、その距離は十町(1キロメートル余)の道中であったと伝えられています。
 日吉神社の小宮さんの裏手に木製のなぎなたが納められていますが、もしかしたら当時の長刀踊りに使われたものかも知れません。

拝殿
 瓦葺入母屋造の立派な拝殿です。大きさは十六尺七寸四方縁三尺とありますから、およそ5、6メートルの正方形の建物です。大正15年4月に建立され、当時のお金で1,500円を要しました。さらに、材木はすべて氏子の方々の献木によって建てられたとのことです。また、付帯工事として拝殿前の石垣(高さ3.3メートル余 長さ22メートル余)が築造されました。
 記録によると拝殿の竣工式には餅まきや素人宮すもう、謡曲などが盛大に奉納されたということです。当時をしのぶものとして拝殿東側に額がかかっています。

寺院

1.能徳山 九品寺
 九品寺は、お寺の資料によると応永20年(1413年)「応永23年との俗説もあります」伴氏菩提のため僧隆堯法院の弟子、堯誉隥眞上人により創建されました。創建当時は、天台宗のお寺であったと言われていますが、後に浄土宗に改宗されたとのことです。その後、180年以上経過した慶長年間(1596年~1615年)に本堂及び庫裡が全焼しました。
 幸い山門は火災から免れ創建当時の面影を残し、本堂や庫裡が新しくなった現在貴重な建造物と言えます。山門の梁の上に置いた受け木の蟇股が当時の建築を物語っていると思われます。墓地には「文禄元年」(1592年)の年号銘入りの小さな石塔と、さらにもう一基は「慶長14年」(1609年)の年号銘入りの石塔が残っています。
 さて、全焼した本堂は江戸時代の貞享3年(1686年)僧見達上人によって再建されました。
 なお、その頃の九品寺は、浄土宗の安土の浄厳院の末寺であったようです。什物に寺歴の大要及び法名を記した「万人講寄附帳」、「寛文13年」(1673年)の銘入りの柄香炉、「享保11歳丙午9月」(1726年)の香炉、「安永5年11月」(1776年)銘の鰐口などがあります。
 江戸時代も末期の文久3年(1863年)、僧文誉了遵上人が私財を投じて庫裡を再建されました。
 明治22年(1889年)に鐘楼が新しく建てられ、その年の5月に檀徒の菊田重吉氏が梵鐘を寄進されました。さらに、明治23年には総本山知恩院の末寺に変わって今日に至っています。九品寺の歴代住職の尊名は明らかではありませんが、大正から昭和の時代にかけては、第32世の白木孝準上人でした。孝準上人は、在任中、数々と寺院の興隆に尽くされましたが、昭和44年(1969年)2月に94歳の長寿をまっとうされ、その後任として嫡孫の孝伯上人が2ヶ年程継がれています。
 さて、孝準上人は、住職在任中の昭和8年(1933年)に五重相伝を施されましたが、その後諸事情により、任期中再度の五重法会を行うことなく、在任末期には受講経験者(受者)が皆無になるという異常な事態をまねきましたものの、次々世大田丈光上人によって、昭和48年(1973年)11月に実に40年振りの五重を第1回目として興され、丈光上人の在任期間中に第2回(昭和52年)、第3回(平成3年)と五重相伝を施され、合計262名の受者を育てて伝授されています。
 ところで、第34世大田丈光上人は、昭和46年(1971年)8月、日野町三十坪誓光寺より兼務住職として当寺院に迎え、昭和47年(1972年)4月には上人の入山式が行われています。
 丈光上人の在職中には、境内の東西墓地の整備(昭和55年から同60年)が行われたり、懸案となっていた本堂の全面改築工事の偉業も、住職、役員、壇中共々の協力のもとに昭和63年(1988年)11月3日の落慶により成し遂げられています。
 この改築工事は、実に9千万円に及ぶ事業費によって近江八幡市の建築業乾産業に委ねられました。引き続いて、7年後の平成7年(1995年)2月には、これまた130年昔に再建されたとの記録の残る庫裡の全面改築工事が施されて竣工しています。庫裡改築竣工の翌年の平成8年(1996年)11月には第35世大田光彦上人(丈光上人の御子息)の九品寺住職就任の晋山式が執り行われています。
 惜しくも平成18年(2006年)2月27日には、25年間にわたって九品寺の住職を務められ、檀徒の育成と寺院興隆のために多大の功績を収められた第34世大田丈光上人が逝去されました。
 ここに、丈光上人をはじめ既にお亡くなりになられた歴代住職上人のご冥福を心からお祈り申し上げます。

2.黄檗宗 瑞岩寺
 このお寺は、山号を霊松山と号し、下山の前田111番地内に3間×3間の本堂を有し、本尊として聖徳太子の御作とされる十一面観世音菩薩を祀っていましたが、本堂の改築を昭和33年(1958年)に終えたにもかかわらず、繁茂する樹木に本堂の周囲を覆われ、加えて無住の時期を迎えたため本堂の朽ちが激しく、改築後三十数年にもかかわらず風雨から本尊を護りきれず維持管理困難となり、止むなく一時期は九品寺に仮安置させてもらっていましたが、平成6年(1994年)から同宗門である。

 ある近江八幡市岩倉の福寿寺に安置方を依頼して以後継続して瑞岩寺の檀家によって祭祀されています。瑞岩寺は、文明年間(1469年~1486年)伴家五家の祈願寺として草創されましたが、最終の専任住職としての第10世神田為教和尚が昭和19年(1944年)享年61歳の若さで寂滅された後、20年間程遺族によって管理されていましたが、これも湖南市の方に移住されたために無住となった訳です。現在の住職は、栗東市安養寺に所在する万年寺の住職仙石龍園和尚を瑞岩寺の兼務住職として迎えています。

なお、当寺は、甲賀郡観音霊場三十三ヶ寺のうち第二十五番の霊場として尊崇されている由緒あるお寺です。

 仏像としては本尊の他に毘沙門天、阿弥陀如来、釈迦如来、誕生仏、四天王の内二体像その他が合祀されているのと併せて寺宝として大般若経六百巻、十六善神掛軸、開山六眉禅師頂相のほか什物が数点保管されています。

3.廃寺となった寺院
 下山の沿革、中世の項(5頁)に記されるように下山にはたくさんのお寺がありましたが、そのほとんどが廃寺となっています。調査を行なった結果、次の寺院が廃寺となっていることが諸記録の中から浮かび上がってきました。

中山寺
 貞元元年(976年)に慈恵大師(良源)という高名な僧が開いた寺院で、現在の林田永太郎氏と伊藤正氏宅の裏側の山林に位置していたようです。
 貞元元年の年次は、伴中山の三十八社や智禅院の草創と同時期で、関わった僧も同一人物であるところから、これらの社寺との関連が大きく伺われます。中山寺はどうやら戦国の動乱期(1500年頃)に戦火に遭遇したように推察できますのと宗派は天台宗であったようです。

光明寺 ※郡志では光明院
 お寺のあった場所は、林田登氏宅から林田治氏宅にかけての裏山に位置したと伝えられており、宗派は真言宗であったようです。
 甲賀郡志によれば、伴景秀が浄土宗九品寺を創建ののち自ら廃寺とした、とありますので、随分昔の寺院であったことが伺われます。

善隆院
 お寺のあった場所は、臼井満夫氏宅裏の山林と伝えられます。その跡地からは、最近まで石仏がよく出土したようです。このお寺の創建時期は分かりませんが、天台宗のお寺であったそうで、九品寺の草創と同時にこのお寺も廃寺とされたようで、本尊の阿弥陀如来は九品寺に合祀されており、またこのお寺にあったとされる天蓋等も当時は相当立派なもので、九品寺に収められています。

福蔵寺
 このお寺は、中市場、現在の林田昌典氏の作業場位置にありました。(県道沿い)このお寺の宗派は、禅宗永源寺派で往時は4間×3間の立派な本堂に本尊観世音菩薩像が安置されていました。天正年間(1570年代)伴氏一族の祈願寺として創建され、住職を置いて近郷近在の信仰を集めており、明治2年(1869年)に前述の本堂を再建されましたが、信徒が5戸であったため寺の維持に困難をきたし、明治11年(1878年)10月に本山永源寺を離退して伴氏の祈願寺である瑞岩寺に合祀して廃寺とされました。

文教

 「寺子屋」という言葉は、私達のよく耳にする言葉ですが、昔の子どもの教育施設です。この下山にも実は寺子屋が天保2年(1831年)から九品寺と瑞岩寺の二ヶ所で開かれていました。
 生徒のことを「寺子」と呼んでいましたが、その寺子の先生は、お寺の僧侶が主に携わっておられました。そうしてもう一つ言えることは、寺子屋は今日の私塾のようなもので決して制度的なものではなく、言うなればお寺の僧侶のアルバイトであったようです。この意味から今日で言う「学資」も必要でしたが、下山の場合、他の在所と比較しても寺子の数は案外と多かったように見受けられます。貧しい農家の土地柄でしたが、この下山は親や子の向学心が強かったのでしょうか。

 以上の寺子屋が明治6年(1873年)までの43年間も続けられましたが、これに前後するように近代国家に目覚めた明治政府が、明治5年(1872年)に「学制」を頒布したり、太政官布告を発布して「国民は皆教育を受けなければならない」という主旨の制度化にむけて動き始めました。この趣意に沿うようにして明治7年(1874年)3月、伴中山の智禅院で下山村と伴中山村との連合で余力学校が開設されました。この余力学校が、明治14年(1881年)までの7年間にわたって続けられましたが、翌年この余力学校から下山が分離して下山学校を設立しました。分離した理由は十分なことは分かりませんが、学舎が荒廃してきたことや下山側の通学距離の問題ではなかったでしょうか。
 その伴中山村から分離してできた下山学校が、現在、九品寺の前にある県道沿いの駐車場、ここに建っていた以前の、そしてもう二つ前の下山公民館(後には下山事務所とも呼んでいた)の建物でした。その建物が明治14年(1881年3月に竣工していますが、そこで新しく下山学校が始められています。その後、文部省や地方の制度の変更や介入によって色々と修正が加えられてきたようですが、以後明治37年(1904年)に伴谷尋常小学校が伴中山の現在地に決められて、建設されるまでの間23年間ほど下山学校が運営されてきています。明治37年(1904年)3月、ようやくここにきて一村一学校の時代をむかえたことになりました。
 以下これらの参考となる資料を添えますと次のようです。

 天保2年(1831年)から明治6年(1873年)までの間、九品寺と瑞岩寺で寺子屋がひらかれましたが、年次ごとの寺子の数は一部を除いて不明です。推定するのに九品寺と瑞岩寺あわせて30人前後の寺子数だったようです。なお、寺子の男女比をみると、どうやら未だ当時は圧倒的に男子が多かったようです。習い事の中心は、読み方と書き方(習字)であったようです。

明治7年(1874年)から伴中山の智禅院で伴中山と下山の連合の餘力学校が開かれています。


 これとは先に「学制」が明治5年(1872年)に発布されています。

 伴中山の餘力学校と分かれて下山学校を設立開業されたのが、明治14年(1881年)3月でした。

下山学校(現九品寺駐車場地内)
下山学校(現九品寺駐車場地内)

下山学校児童の増減と就学率

年代学齢児童数就学児童数就学率
明治14年2638641882640.6
明治15年27356221194064.5
明治16年28356323194266.7
明治17年26346023224575.0
明治18年35387324234764.3
明治19年36407623123546.0

 この当時の学年編成は、学校を上下二等に分けて
下等小学(6~9歳)4年制
上等小学(10~13歳)4年制
とし、上下とも8級に分けられ、入学すると8級から始まり6ヶ月ごとに1級づつ進級して最上級の1級に進むことになっていました。したがって、上、下小学校を履修するには8年を要したことになりますが、実態はどうだったのでしょうか。対象児童の数や就学率においても今日から比較すると「驚き」です。

 右の教科書の写真は、明治16年~同18年頃に小学校で使われた修身の教科書です。(黄色のウラ表紙の本が小学上等4年2級の教科書、下の絵入りの本が小学下等3年3級の教科書です。)

 下山学校当時に使われていたことになります。

城跡

1.下山城跡
 四方土塁の典型的な城館で南と東に空堀がある。北の一段下も郭(曲輪)の一部で井戸跡があり、虎口部分に土塁がみられる。城から北100mの地点に、下山城屋敷と呼ばれる館跡があり、北と西に土塁が残っている。

図参照
上:下山城屋敷
下:下山城

 下山城屋敷は下山城の城主の居館だったそうですが残念ながら最近造成されてしまって土塁等が壊されてしまいました。(旧伴定之氏宅跡)

 下山城は近隣地域を代表する城で1309年に築かれ1582年に滅んだ城となっています。その間273年間、数々の戦功と功績を残しております。(下山の沿革、中世の項参照)

2.津山城跡 他

津山城 甲賀郡水口町下山字細差
 下山北城と並んで築かれていて、城主は津山左京と伝える。主郭は自然地形を活用しているので、東、北、西三方の土塁は雄大で空堀が取り巻く。城は大きく三段に分かれ中断は、東と西の二郭に分かれている。最下段の三郭は土塁に囲まれていて平素の館があった所か。

下山北城 甲賀郡水口町下山
 伴氏の支城といわれ、津山城の東に隣接し、四方土塁としている。虎口前は武者隠しを兼ねた土塁と空堀があり、虎口を入った両横土塁上には平地を設けた遺溝がある。

津山城:福井、松鹿、高山、寺岡、藤井、福田、西本、穂積、柘植 (1985.3.24)
下山北城:福井、松鹿、藤井、谷戸、大花 (1983.12.4測量)

東迎山城・西迎山城 甲賀郡水口町下山
 両城とも伴氏の城と伝える。どちらの城も四方土塁型で周囲に空堀や水堀がある。
西迎山の方は丘陵が斜面であり、南背後土塁のは切り込み式で高い。

東迎山城・西迎山城:福井、寺岡、藤井、西本、秋永、柘植(1983.12.4測量)

石造遺品

1.石塔

 下山の地内では最も古い石造品と考えられます。台座右に、かすかに残る三茎蓮の図とその朽ち具合から九品寺創建前の全隆院から移設したもののようです。

寛政8年(1797)に臼井家の先祖祐慶氏の法華典読誦三昧による満行の記念塔と思われます。(伴隆一氏著「ふるさとの下山」の解説とは若干異解釈の部分があります。)

2.手水屋

 神社に参拝する時、手水をつかって身を清めますが、我が日吉神社の手水屋は近隣では見られないめずらしい石造りで立てられています。日吉大社の手水屋を摸して造られたもので、昭和12年に氏子の方々が奉納されました。

3.石仏

 下山には古来から伝わり、そして先祖から引き継がれて来た数多くの石仏が残っております。現代の私したちは、その石仏のことを伝説の中から特定の信仰の象徴としたり、また長い年月、何代にも亘って地域の人々と接して護ってこられた大先祖として今日もなをお祀りつづけております。そのうち何本かの石仏を改めて紹介いたします。

臼井定雄氏の西の道ばたに五体祀られております。

浅野真氏家で祀っておられます。(臼井満夫氏宅裏の山林)

瓦葺きの 立派な堂の中に祀られております。

特にこの地蔵さんは母乳を授ける地蔵さんとして慕われてきております。今もお参りの信者が多くおられます。占いの石もおいてあります。

境内敷地に四体の石仏が合祀されております。

西市場の地蔵さん

 九品寺境内の六体地蔵さんの北側で中市場の地蔵さんと同一棟でお祀りしておられます。その昔、自然石で造られた仏像をお祀りしていたそうですが、不思議なことにその御影を拝した人はあまりなく幻の地蔵さんとも言われておりました。
 昭和63年(1988年)3月に現在の御身丈53センチメートル(蓮花台を含む)のお地蔵さんを開眼して、以後垣内中でお祀りしておられます。

他にこのお地蔵さんの脇に三体の石仏が祀られています

西市場の石仏さん

中川清一氏宅北西の県道脇に2体の石仏が祀られています

西市場の徳本碑

通称駒の口と呼んでいる県道沿いの繁みの中にたてられていますがこれは石仏ではなく南無阿弥陀仏と刻まれた石碑です。

  宝暦8年(1759)現在の和歌山県で生まれた徳本と言う和尚が念仏に励まれ数々の荒行を積まれて全国を巡業の旅に出られ当地へもお立ち寄りになられた時に揮毫されたものを信者であった佐井久三郎氏が資財を浄じて建立されたものです。
 徳本和尚は文政元年(1818)61歳で江戸にてなくなられたそうです。

中市場の地蔵さん

 二体あるうち右側の地蔵さんは宝暦年間(1751年~1763年)伴十太夫の子で伴義太郎が福蔵寺の住職となり四国八十八ヶ所を巡礼して満願記念のためこの地蔵さんを祀られたそうです。左側の地蔵さんについての謂れは不明です。

九品寺の境内で西市場の地蔵さんと同一棟に祀られております。

迎山の地蔵さん

本来は寺院ですが、現在は迎山の集会所としても利用されている鉄骨造りの建物で仏像や石仏を祀っております。(寺院変、玉蔵寺の項参照)

ある時期祈祷女による占いがなされていたこともあり、その占い石が今も保存されております。

迎山の地蔵さん内部
迎山の地蔵さん内部

敷地内にはたくさんの石仏が祀ってあります。

祠(ほこら)

 お寺やお社のほかにお地蔵さん等をお祀りする比較的小さな建物のことを「堂」と呼んでいますが、反面、大自然や各種の威霊をお祀りしている、いわゆる神道系の建物、もしくは建物を有しないながらもその聖地の部分を「祠」と呼び分けているようです。昔から下山に祀られている祠については、次のものがあげられます。日吉神社境内に合祀されている祠については、日吉神社編をご覧ください。

山の神さん
 下山には二ケ所の山の神さんがあります。詳しくは、祭りごと編をご覧ください。

大谷の山の神さん

宮山の山の神さん

龍王さん

 大谷山にお祀りされていますが、建物としてはありません。龍王さんの説明については、「祭りごと」龍王さんと雨乞いをご覧ください。

祭りごと

 いずこの地域や集落においても、そこには代々継承されている「祭り」があります。その祭りのほとんどは神仏信仰に基づいたもので、神前や仏前で式典を執り行ったり、ある時は酒食を伴わせてその意識を高め合ったり、又ある時は老若男女が参加してその意義を鼓舞するイベントを行ったりなど、規模の大小こそあれ様々な祭りが受け継がれてきています。
 ここに下山で長い年月にわたって継承されている数々の祭りごとのうち、その主なものを挙げてみました。

1.日吉神社のお祭り

[春まつり]

 日吉神社の春まつりは、例大祭として4月14日に近い日曜日に行われます。大正15(1926年)に拝殿が新築され、その年から坂本日吉大社の大祭日と同日の4月14日を日吉神社の表祭りとして斉行されるようになりました。

 その後、昭和54年(1979年)に初老の厄年を迎える方々より子供神輿が寄進され、にぎやかな春まつりが行われるようになったことから、4月14日に近い日曜日に変更されたものです。
 春まつりは、祭神大山咋神命のお祭りで、当日は多数の氏子が参列し、神事では氏子中より選ばれた4名の舞子が神楽舞いを奉納されます。午後からは子供神輿がお旅所へ渡御されたのち、集落中をねり歩き、途中の休憩所では菓子や飲み物がふるまわれ、氏子中あげての賑やかなお祭りが続いています。

[元旦祭]
 1月1日氏子中があいつどい日吉神社に詣で、元旦祭が執り行なわれます。昔から、集落の長である区長が正装にて区民の年賀を受け、神事のあとには新年のあいさつをするならわしとなっています。また、元旦祭には厄年を迎える老若男女が氏神さまのご加護をいただくべく、神前で祈祷をうけ1年の無事を祈ります。

[祈年祭]
 2月にその年の安全や五穀豊穣を祈願する大祭として行われ、舞子4人による神楽舞いが奉納されます。また、この日には貴船神社の祭典も併せて斉行されます。祈年祭は、全国各地の神社で行われるおまつりで、古く天武天皇の時代に祭祀が行われていたとされ、11月の新嘗祭と対になるといわれています。

[行い祭]
 1月17日に祭典が行われます。新年になると物事を始めて行うとき、いわば区切りをつける意味で色々な行事がなされてきました。1月5日はつくりぞめとして田に鋤を入れ、山の神から持ち帰った「つと」を祀る行事がありますし、1月9日には山の口として宮守さんがお旅所で神事を行い、この日から山仕事に入ってもよいとのならわしがあります。
 農作業や山仕事を新しい年に初めて行うとき、昔の人は野の神、田の神、山の神に祈りをささげ、安全や五穀豊穣を祈願されてきました。行い祭もこうした意味をもち、年の初めに諸々のことが無事に行えるよう氏神にお願いするお祭りとされています。
 下山の場合は、明治元年(1868年)まで十善師を氏神として祀ってきたことから1月17日を行い祭の日と定め、観世音菩薩、毘沙門天、不動尊など十善神社にまつわる祭事も併せて行われています。折からこの日は伊勢神宮つかいのしし舞いが拝殿で奉納されます。

[早苗振祭]
 6月に日吉神社でお祭りが行われます。この起源は、神代の時代からある行事の一つで、神さまが下界へ降神され、苗を田んぼに植えられ、田植えが全部終われば、また天に昇神されたそうで、人々はこの神さまにお礼参りとして氏神さまへ詣で、祭典が始まったとのことです。
 日吉神社の祭典では、田植えが無事終わったお礼と豊作を祈願して神前に早苗が供えられます。また、神事の中では「御神湯」が行われます。人々が生きていく上で水と火は欠かせないものです。下山のお宮さんでは大正時代に寄進された立派な釜で湯を沸かし、巫女さんが湯立神楽を舞いながら、笹で湯をまくなどして氏神さまに湯をお供えされます。これは、大事な湯を神に奉納すると共に氏子の名前が読み上げられ家内安全や諸願成就を祈願されるものです。
 さらに、祭典には「人形」が供えられます。この人形は、6月の水無月と12月の禊の年2回氏子各戸に配布され、氏子の各家では半年にたまった罪、けがれを厄ばらいし、家内安全などの願いごとを人形に託し神社に供えます。神前に供えられた人形は宮司と宮守の手により思い川の迎山橋から川に流され氏子の人々の身を清めてもらいます。昔から水に流すという言葉がありますが、厄ばらいを人形に託す神事は遠い昔から行われているものと推察されます。
 なお、人形などの神事は下山のお宮さんに限らず、各地の神社で行われています。

[新穀感謝祭]
 新嘗祭とも言われ、日吉神社では11月に行われます。この祭典は、秋の実りは神さまのご加護によりもたらされるものであるとして、その収穫の喜びを感謝するお祭りです。
 神前には稲の穂が供えられ、4人の舞子により神楽舞いが奉納され、氏子各戸の豊作を奉告すると共に、神事ののちは白酒も振舞われ、氏子全戸に直会が配られます。
 また、この日には次の宮守となる湯わかし[宮守見習]が決められます。宮守の候補者となる者の名前を書き、小さく丸められた和紙を神前に供え、祭神の前で宮司のつかさどる御籤によって決められるおごそかな儀式です。

[納涼祭]
 7月に祭典が行われます。昔は、青年団などによる余興が盛大に行われていましたが、いつの日にか止んでしまい、現在では長生衆が参拝して祭祀がとり行われています。
 納涼祭といえば世間一般には、納涼大会とか花火大会などと言って、暑い夏の日に涼を求めて少しでも快適に過ごすための催しぐらいに思われがちですが、日吉神社の納涼祭は、納涼とは言うものの、この時期田んぼに十分に水を補わねばならない時期であり、また稲の害虫を追い払わねばならない時でもあるところから、氏子中がこの日は斉戒[心身を清める]して氏神様にお祈りを申し上げ、その後に氏神様を交えて楽しく、涼しく過ごさせていただくお祭りの日なのです。

[八幡祭・出来日待祭]
 9月に日吉神社に合祀されている八幡神社のお祭りが行われます。出来日待ちと言うのは書いて字の如く秋の収穫をはじめ五穀豊穣を氏神さまに祈り、日を待つ祭典です。このお祭りでも「御神湯」の祭事があり、氏神さまに湯をささげ巫女さんが湯立て神楽を奉納されます。

[大祓祭・冬至祭]
 12月に祭典が行われます。大祓祭は禊祭ともいわれ1年を無事に暮らせたお礼と厄ばらいを行ってもらう祭典です。この日も各戸から供えられた人形を川へ流す祭事があります。また、冬至祭、宗忠神社祭も併せて斉行され、社務所には宗忠神社の掛け軸がかけられます。

2.山の神

[下山の山の神さんの行事]
下山には、大谷と瑞岩寺裏山の2ヶ所に山の神さんがあり、毎年1月3日に行事が行われます。(昔は3日と4日でした。)行事の内容は、当日早朝より宮守さんがご神木にしめ縄を張り、竹でつくった供え物台に御神酒、洗米、鏡餅、お魚等をお供えして山の神をお祀りされます。
 下山の住民である私たちは、家々に男性が、その家の男子の数の倍の「つと」と餅、たつくり、昆布、くり、干し柿、みかん等山海の珍味のお供え物を持ってお参りします。
 つつじの枝にチレとともにかけてご神木の近くに奉納し、山の神さんに子孫繁栄、五穀豊穣を祈願します。おりから山の神さんでは火が焚かれ、おさがりの餅などを焼いて、それをいただき、一時を過ごしたのち、もう一方の男子人数分の「つと」を持ち帰ってきます。持ち帰った「つと」は、1月5日のつくり初めの日に田んぼに鋤を入れ、神社からいただいた松の枝と共にお祀りして、その年の豊作を祈願します。
 下山では、こんな行事が昔から行われてきましたが、いつの時代から始まったのかは残念ながら不明です。また、山の神さんの行事は、内容こそ違え、全国各地で行われています。都会の真ん中でもお祀りされているところがありますが、そこは昔農村であったことを物語っています。

[山の神とは]
 大昔のことになりますが、原始、古代のころ、私たちの祖先は、だんだんと集団で生活するようになり、それぞれの集落を形成していったと言われています。そこには秩序や統制があり、文化が生まれ、人々が崇敬するものや信仰するものが出てきたと考えられています。
 人々は野や山で暮らし、自然の猛威を恐れ、自然をあがめる中で、天に一番近い山を崇敬し、そこに神がおわすこととして山の神を祀るようになったと言われています。
 さて、山の神は女の神さまです。多くの文献では、この女神は醜女でありましたので、ほかの女性を見て自分の醜い姿に常々気を病んでおられたそうです。そこで、魚の中で一番醜い顔をしているオコゼを山の神に供え、ご機嫌とりをしたと書いてあります。
 山の神はオコゼが大好物と言われる所以はこんなところにあり、子孫繁栄と五穀豊穣の神さまとしてお祀りされるもとになりました。
 下山の山の神さんでは、松の木の三つ又を男性、二又を女性と見立てて神前を飾りますし、女性が参らないのは山の神さんに屈辱感を与えないためだということのようです。
 また、「つと」を持ってお参りし、土を入れて持ち帰る所以は定かではありませんが、一説にはオコゼに似た「つと」をつくり、土をつめるのは妊娠させたように見せて子孫繁栄を願ったとも言われています。
 いずれにせよ、それぞれの家に山の神さんのご利益をいただき、子孫の繁栄と五穀の豊穣をお願いしたものと解釈できます。
 このように、山の神は、民俗文化と神への崇敬が一体となったもので、祭祀のやり方はそれぞれ違いますが、全国津々浦々でお祀りされています。私たち下山の祖先が昔からお祀りしてきた2つの山の神さんも、その由緒を継承して行事を続けていきたいものです。

3.お日待ち

 下山には「お日待ち」と言われる行事があります。毎年2月6日の夕方に当番宿の家に集まり翌朝までその家で過ごす行事です。
 私が子供の頃に村の古老に聞いた話では、昔下山に大事件があって村中が夜を徹して大騒ぎをした事があったそうです。それが2月6日の夜です。どんな事件なのか?いつの時代の事なのか?その人にも分からないとの事でした。随分昔の出来事だった様です。この事を忘れないように毎年2月6日の夜、各家の戸主が集まって徹夜をしょうと始まったのが、「お日待ち」の起源だそうです。その後長い年月を経て色々と形が変わり今日まで引き継がれて来たようです。
 初めはそうでもなかったのでしょうが、特別する事も無く夜を明かすとなると、酒でも飲もうかとなり、酔いが廻れば寝てしまうという事となります。
 昭和の初め(昭和18年頃まで)の頃「お日待ち」は夕方より宿の家に集まります。宿の家は床の間に榊の花を生け、「天照皇太神宮」の掛け軸を祀り、神酒、洗米、灯明を供え、垣内の全員が揃うと、お神酒を戴き、宴会が始まります。夜が更けるとお膳を片付け、垣内の人数分の枕や蒲団を敷き、宿の家で朝まで眠ります。(枕や蒲団の足りない分は近所、親戚で借りて人数分を揃えたそうです。)夜明けと共に起床して自宅に帰り、嗽、手水で身を清め、氏神様へ参拝して無事2月6日の夜が過ごせたことを感謝して「お日待ち」の行事が終ります。このしきたりは随分長く続いていたようです。
 昭和19年になると大東亜戦争の敗戦が色濃く日本の各地で空襲を受ける様になり、宿の家で泊るようなのんびりとした事は止めようと言う事になりました。戦後、世の中の移り変わりが激しく「お日待ち」も宴会が終了すれば各自宅に帰り、翌朝氏神様に参拝することになりました。氏子のみんなが初心に帰り、神様に地域や家族の安泰を祈る心を持ち続けたいものです。

4.龍王山と雨乞い
[龍王大明神]


 米を作るには多くの水が必要ですが、昔は天水田と呼ばれる田んぼもあり、溜池も現在のように整備されていませんでした。まして、地下水をポンプで汲み上げて田用水にするなど考えられないことでした。
 20日も晴天が続けば、田の水は干しあがり、田んぼには亀裂が入り、稲は枯死寸前となり、雨が降らなければその年は大凶作になってしまいます。
 先人たちは大変困窮し、神頼みとして氏神さまにお参りして雨乞い祈願をしたと伝えられています。日吉神社の境内では、大人も子供も「雨たもれや、たもれや」と声高らかに踊り、その踊りが終わると夕暮れ時からたいまつをかざし、龍王山へ登り、同じく「雨たもれ」と祈願してたいまつを1ケ所に集め、火を焚いたと言われています。
 龍王山は、大谷の山の上にあります。大谷の下の池のところから左手にとり龍王山へ登る道がありましたが、今では雑木が生い茂り通れなくなり、広野台団地北側の関電鉄塔の管理道路を使って登ることができ、毎年区事業で行なわれる境界まわりで登られています。龍王山には龍王大明神が祀られ、毎年6月に宮守さんにより祭祀がとり行われていますが、小さな祠のようなところに壷が伏せてあり、その壷の中の水がなければ、その年は水不足になると伝えられています。

[雨乞い祈願の記録]
 実際に雨乞い祈願が行なわれたのは近年では昭和14年(1939年)で、「雨乞祈願祭諸経費精算帳」と書かれた記録が残っています。その中には、「本年ハ稀有ノ大旱魃ニテ植付後降雨ナク農家ハ困苦シ至ル所ニ水揚作業ニ盡力セシガ水源ニ水ナク非常ニ困リ最早手ノ及バザル状態トナリ八月十三日組頭会開催致シ雨乞祈願祭執行ノ件協議ノ結果満場一致可決早速翌十四日ヨリ雨乞祈願祭執行致シ社掌乃祈待ノ下ニ氏子総代始メ各役員及ビ一般民参列シ第一回ノ祈願祭ヲ執行セリ昭和十四年八月区長記ス」と記述してあります。
 さらに記録をたどっていきますと、

*8月14日 祈願祭が行われ、その日より5日間一般区民が随意神社へ祈願に参拝されています。
*8月19日 第2回祈願祭が午前7時より日吉神社において行われ、今度はその日から5日間、各垣内毎に一昼夜こもり、朝6時に交代して祈願したとあり、また午前に龍王山に一同が来拝してのち、日吉神社にこもられています。
*8月24日 第3回として午前7時より日吉神社において雨乞返上式が行われています。これは22日と23日に少量の降雨があったため、古式に従い一時返上されたものです。
*8月26日 午前中に龍王山の壷の伏せ替えが行われています。
*8月27日 第4回祈願祭が行われ、この日より4日間笹幟りという行事が行われました。下山を北側と南側の2つに分け、隔日に各戸が笹幟りを持参の上、日吉神社に集合して行列をくんで龍王山へ参拝されます。この時には鐘や太鼓を打ち鳴らし「雨たもれ、たもれや」と声を出しながら行列が続いたということです。9月1日一般笹幟り行事が行われ、午前7時、一般区民が笹幟りを持参して参集。社掌(宮司)以下一般区民が龍王山に参拝されています。
*9月10日午前に祈願返上式が行われています。午後から雨喜び式が行われ、一般区民が参列。御神酒がふるまわれました。

 記録では8月22日と23日の少雨以外にいつ雨が降ったかは記載されていませんが、9月10日までの直近に恵みの雨が降ったと推察されます。それにしても当時の区民の皆さんは大変なご苦労をされたものです。

5.千燈祭
 千燈祭の縁日は、10月13日とされており、このお祭りの由緒(謂れ)は次頁の「表白」にもありますように祭神の毘沙門天王は、大昔は日吉神社にお祀りされていましたが、数奇な災難やめぐりあわせを経て九品寺のお祀りされるようになりました。その時期がどうやら享保年(1716年~1735年)のいずれかの年の8月13日だったそうです。
 毘沙門天王は、現在、九品寺本堂内陣に向かって右側のお厨子の中に安置され、檀徒住民が五穀成就に感謝して福寿増長と開運をお祈りする象徴像なのです。 ところで、神社のお祀りされている祭神を寺院にお祀りしたりすることに対していぶかる人があるかも分かりませんが、昔は(近世以前)神仏習合といってよく行われることで決して不思議なことではありませんでした。
 さて、以前は「表白」のご教示のとおり本堂内で「なたね油」を千個の土器に注いで点燈、献上しておられました。また、イベントとして藁人形の造りもの作って出来栄えを競い合ったり、各種余興を催して近隣からのお参りや見物客をたくさん迎えて賑わっていましたが、近時はローソクによる献燈となり、その燈数は300程度となっています。時代の経過とともにお参りする人もだんだんと少なくなり、少し淋しい千燈祭になってきていましたが、住職さんや寺院関係役員さんの努力とお計らいで、また賑やかで明るく楽しいお祭りを取り戻しつつあります。

ちなみに、平成18年(2006年)には、檀家個々から88個の提灯の奉納によって境内で献燈し、本堂内では400燈のローソク献燈により明るく美しく厳かな雰囲気のなかで千燈祭が執り行われています。

毘沙門天王表白
毘沙門天王表白

[千燈祭のいわれ]
 当寺に安置したてまつる毘沙門天王は、運慶の御作なり。折も、この尊像は当所の氏神十禅子の傍らに大堂あり、正法山浄土寺と号す。其の由来を尋ぬるに比叡山延暦寺、御草創のみぎり、当所に山王十禅師並びに伽藍等ご建立なさしめたもう。本尊観世音大士、脇立不動明王、毘沙門天王なり。天正文禄の間、諸国兵乱の砌り、本尊、並びに両脇士等、う勢させ給う。
 其れより村人、老宿、昼夜たづね求め奉ると言えり、其の御座所をしらす。之に依って氏子何某、浄土宗に通夜する事、数度に及び、祈り慕う。ある夜、夢に光明輝くとして毘沙門天王、現じましまして告げて曰く、吾は是れ須弥大山の北にあたり安尼曼挐城の主、毘沙門五穀成就擁護の神なり、我を祭り千燈を献じ、恭敬礼拝し祈る者あらば五人王子、八人兄弟、二十五人の使者を遣わし、不信懈怠の門を制し信心堅固の者に諸々の障礙を除き病難を救い、富貴開運の願いを成就なさしめんと告げて曰く、何某信心肝に銘じ、天王の還幸あらわれと、渇仰随喜の泪と共に夢、覚めたり。尚、余光堂内に薫じ不思議の有様なり、早速、家に帰り村内に披露し、千燈を献じ、祭礼修行の法式を願う。頃は、享保年中八月十三日なり、尊像を当寺に遷し奉り、幾久しく守護を願う。福寿増長、霊現新たなる尊像なり、しかりと雖も世に知る人まれなり。開運守護の神、御拝礼、御拝礼。
 毎年、縁日(千燈祭)の日に和尚さんが読誦される毘沙門天王の上欄の表白文を安易に読み換えると次のようになります。

[毘沙門天王の語り]
 当九品寺に安置している毘沙門さんは、かの有名な鎌倉初期の彫刻家、運慶が彫られた仏像です。この仏像、元は下山の氏神さんと同じ敷地内に祀られていましたが、1573年~1595年(天正、文禄の間)の戦乱によって行方不明になられたことがあります。そこで全ての住民がそのお姿を探し求めましたがなかなか見つかりません。このため氏子の一人が祀ってあったお堂に幾度となくこもってお祈りしておりましたら、ある夜突然幻のごとく毘沙門さんが現れて次のようにお告げになられました「私は、須弥山と言う仏教界にある中心の大山で、主に北方の世界を護る役目の毘沙門天です。村人の皆さんが私を崇めその証として千個の燈火を献じて祈られたら、私だけでなく同僚や多くさんの友人弟子達の応援によって数々の困難を取り除き、病人を救って繁栄と幸せの願いをもたらすことができるでしょう」と。

 このお告げを聞いた当の氏子は正しく毘沙門さんのご帰還の証と喜んでいるうちに夢から覚めました。早速このことを村人に知らせて千燈祭を行おうと呼びかけたのです。1716年~1735年(享保年中)でのある年の8月13日、毘沙門像を九品寺にお移しして【このところは夢と現実が交錯した微妙なさわりの部分です】長くお護り頂くことになった灼な尊像なのです。このことは知らない人もあると思います。先ずは開運と守護の神(毘沙門天)を拝みましょう。拝みましょう。

道・川・橋

 下山の在所の中を通る道、あるいはここを流れる川、またはそこに架かる橋などは、長い年月をかけてその形状や構造を大きく変えながら現在にきています。言うなればこれは、ふるさと文化の進化へのうつろい(移り変わり)であって、ここに辿り着くまでにはその時、折々の関係者(役員さん等)の努力であったり、その事業に必要な敷地提供の協力者のおかげであったり、またこれら地域で共有することとなる膨大な施設の手入れや草刈り等、維持管理に余念なく努力する住民の結集のあらわれでもあるのです。
 いにしえの道がどんなものであったかは分かりません。けものが通っていた道を人間が切り拓いて、人の通る道に広げてきたのかも分かりません。上の方から流れてきた山や谷の水が大きな木の根や竹藪を避けながら西へ西へと流れ続けて出来たのが思い川の元祖であるような気もします。何れにしても残念ながらこれらに関する古い資料は存在しませんので、地域の古老や年長者の記憶の範囲内、長い長い歴史からすればほんの瞬間にも等しい70年程(1937年)の姿を地図に再現してみました。地図と比較しながら想像してみて下さい。
 なお、川、道とも主要路線のみの説明にとどめます。

1.道路
[県道 泉、日野線]
 道路幅は2回以上にわたって拡幅されていますので、現在の半分以下の幅員でした。方線は現在とあまり変わっていませんが、高橋は思い川の改修前ですので現在の位置より約70メートル程北に架かっていました。次に中市場地先にきて当時は伴兼利氏宅の東側でなく裏側(北)を通って西側を沿いながら南西に伸び、現道に繋がっていました。今もその道は、旧道として残されています。

[市道 中の垣内、西の垣内線]
 林田清光氏宅前から西の垣内を通って広野台に通ずる道ですが、これは広野台の開発に併せて開発者によって大きく拡幅されています。なお、本路線は、その時に浅野真氏宅南側へ、細佐地先は県営ほ場整備時に約30メートル北側へ方線の修正がされています。
 浅野真氏宅北側については旧道が残されていますが、細佐地先については、ほ場整備による換地処理がなされているため旧道跡敷地は残っていません。
 西の垣内では、井上幸広氏宅の西を通って菊田茂次氏宅前を経て岡田治氏宅前に通ずる道路が本道路でしたため、現在の表道路になっている市道としては、伊藤修実氏宅で終って(切れて)いました。

[市道 中市場、迎山線]
 県道から伴肇氏宅裏そして竹内重行氏宅裏を経て同氏宅東側を南下して佐井一郎氏宅前を東に通じていました。これは、旧道として敷地が残っています。
 佐井一郎氏宅前から傍田勇氏宅東へと通ずる道路は、若干の屈曲を修正しながら拡幅を施し、市道北脇、八田線を南に通じて現在の北脇墓地前に繋がっていました。市道北脇、八田線は、後にさつきが丘工業団地の開発に併せて造成されたものです。

2.河川
[思い川]
 思い川については、地図上に表われている通り、狭くて曲りくねっており河川と言うには極めて効率の悪い、あまりにも自然まかせの小川でした。そのため、大雨の降る度に堤防の決壊や田畑の冠水は茶飯事のように被り、実りかけた稲を押し倒して田んぼの中に泥水と共に流れ込んだ砂利や砂をブリキのバケツで掬い出すことが、洪水後、明けても暮れてもの仕事でした。おそらく流れ込んだ土砂の堆積量にもよりますが、10アール分の修復作業に1週間も10日もかかったようです。そのうえ、秋の収穫量は良くて半作、悪ければ皆無でした。この現実や実態から大きく進んで現在の立派に整備された河川に生まれ変わったのは長い長い歴史からみれば、つい昨日か一昨日の出来事にも匹敵するほど最近のことになります。

以下「思い川と河川改修について」の項などを参考にして思いを馳せてみてください。

3.橋
 橋についても別項「思い川に架かる橋の調べ」にあるように、現在は随分立派な橋に架け替えられています。
 この項で「一本橋」とありますのは、川幅の狭い昔は、人が川を渡るために大きな丸太を二つに割って、人間だけが歩いて通れる橋が架けられていたもので、これが思い川の要所各所に架けられていました。
 井堰については、どんど橋の下流120メートルの位置に施されている現在の一の井堰を超小型化したもので、川に杭を打って粗朶や石ころを置いて川の水位を上げて水田に川の水を引き込むという古風で素朴なダム施設でした。

「道、川、橋」 新旧比較図の凡例
1.下の地図は、平成14年の現況地図に約70年昔(昭和10年(1935年))の道、川、橋の状況を被せ描いたものです。

3.設定年(昭和10年)後の新設や改修、拡幅の工事は、各種多岐にわたっていますので付記、解説を省きます。

4.道路については、市(町)道ならびに県道クラスについてのみ表示し、俗称「三尺道」については省略してあります。

5.あくまでも記憶範囲内での記載ですので、若干の相違はご容赦ください。

4.思い川と河川改修
 全国で7つあるといわれている「一級河川思い川」のうち下山を流れる思い川は、その源流が日野町別所境より始まり松尾から山、伴中山、下山と流れ、湖南市(旧甲西町)岩根を通り野洲川に合流しています。いずれも集落の中央を流れ、過去には雑木、竹藪等を回りくねった河川でしたので、水害等が多く発生し、下流の下山、特に大きく蛇行した柳瀬、前田地先では、年2~3回、風水害で周辺の田畑が冠水し、その濁流が県道を横切り、丹精込めた農作物(米、麦、菜種)に甚大な被害をもたらしました。また、低地の人家に浸水し、長い間住民は悩まされていましたが、昭和28年(1953年)より思い川の改修工事が、旧一本橋周辺(伴資男氏宅の裏)より東(上流)にむかって始まりました。当時は、素掘りの材料は松、杉、桧といった素朴な工事でしたが、コンクリートブロック等による護岸が昭和57年(1982年)に完成し、住民の長年の念願が叶うことになりました。
 しかし、近年になり工業団地、住宅団地、ゴルフ場造成など上流周辺の土地開発と10年に一度の大水が想定され、更なる河川拡幅改修が計画され、平成17年(2005年)に下山細佐(旧一の井)井堰から始まり、最終は伴中山の馬場橋までの間の1.6キロメートルの改修がされることになります。

 しかし、近年になり工業団地、住宅団地、ゴルフ場造成など上流周辺の土地開発と10年に一度の大水が想定され、更なる河川拡幅改修が計画され、平成17年(2005年)に下山細佐(旧一の井)井堰から始まり、最終は伴中山の馬場橋までの間の1.6キロメートルの改修がされることになります。

起業者、滋賀県土木部河川課の概要レジメより抜粋
起業者、滋賀県土木部河川課の概要レジメより抜粋

[起業者、滋賀県土木部河川課の概要レジメより抜粋]
① 流域の概要
 思川は、甲賀郡水口町の北西部に位置し、その源は、日野町境にある標高201.9mの丘陵部に端を発し、水口町、甲西町を縦走して県下の主要河川野洲川に合流している。その流域面積は25.1k㎡、流路延長13.28kmの一級河川である。
 本川は、当該流域における水口工業団地、湖南工業団地の広範囲の開発、或いはほ場整備等近年の急激な流域の形状変化による流出増、及び流域内の宅地造成による人口の増加のため出水による被害は年々増加する一途であった。特に、本地先(下山)においては、昭和51年9月8日から14日にかけての台風17号による集中豪雨の出水により、その河川流路の大半が決壊し、人家田畑等多大の被害を蒙ったため、昭和51年度の災害関連事業として採択され着手した。

②事業の目的
 この災害関連工事は、単に現状復旧にとどまらず治水対策として、河積の拡大、河道線形の是正などを実施し、今後の被害を未然に防ぎ民生の安定を図ったものである。

③ 工事諸元
所在地:滋賀県甲賀郡水口町大字下山
河川名:一級河川思川
工事月日:着工 昭和52年2月 完工 昭和54年3月
総事業費:23,000万円
起業名:滋賀県土木部

④設計諸元
流域面積:17.0㎢(計画基準点)
計画高水流量:130㎥/S 10年確率

⑤工事概要
全体施工延長:L=1,203m
護岸積ブロック:A=7,013㎡
植石コンクリート張工:A=2,669㎡
床止工:1.0基
ボックスカルバート:1.0基
町道橋:2.0橋
用排水路工:1.0式

⑥事業費及び工事内容

総事業費23,000万円全体施工延長 L=1,203m
昭和51年度4,800万円施工延長 L=263m
昭和52年度11,900万円施工延長 L=857m
昭和53年度6,300万円施工延長 L=1,200m
51年~53年 延 L=2,320m

「思い川」に架かる橋のしらべ(1級河川) (参考)思い川は、全国に7箇所あります。

区域川下からの橋参考延長(㎞)
下山1 広野橋昭和51年10月竣工2.5㎞
2 新廣野橋平成17年4月竣工
3 牛飼橋昭和52年11月竣工
4 どんど橋平成5年4月竣工
5 高橋平成16年4月竣工
6 迎山橋昭和44年12月竣工
7 新迎山橋平成2年3月竣工
伴中山8 堂垣内橋昭和50年5月竣工1.6㎞
9 馬場橋昭和52年10月竣工
10 西出橋(甲賀郡農協伴谷支所南)
11 長徳橋平成2年2月竣工
12 比羅尾橋(百姓村に架かる橋)
13 峯道橋(広瀬輝雄氏宅の南)2.4㎞
14 城之橋平成元年6月竣工
15 天神橋(旧ヨウズハ橋)
16 向出橋(山区集会所南)
17 極楽橋(堂村の小橋)
18 百々谷橋(上村の小橋)
19 玉台寺橋
20 城ヶ峰橋平成10年4月竣工
21 小橋(上村の小橋)
22 小橋(松尾境の橋)
松尾境迄伴谷管内総数22橋である。総延長6.5㎞

*思い川改修前に於ける井堰の記録
一の井:引坊 堰二の井堰:細佐 三の井:平ツバ(引坊) 堰:クログルマ(広野) 四の井堰:二反田、大沢 五の井堰:新田 新田井堰

*下山地先一本橋廃橋の記録
大沢の橋:丈ヶ谷~大沢 掛田の橋:細佐~引坊 棚橋:細佐~市場 良蔵橋:下の前~柳瀬