はじめに

 平成の大合併により、2004年(平成16年)10月に旧水口町を始めとする5町が合併し甲賀市が誕生しました。この記念事業として平成17年度に「伴谷の歴史」が伴谷公民館により刊行されました。そして、当時の伴谷地区々長会の総意として、各区もそれぞれ「区の歴史」を編纂することになりました。
 社会の急激な変貌に伴い、当区や周囲を取り巻く環境は、住宅団地の開発、工業団地やゴルフ場の造成等、急激に変貌してきています。しかしながら、伴中山区にはまだまだ自然が多く残り、神社仏閣を始めとする歴史的遺産も多くあり、伝統的な生活文化が現在まで受け継がれています。そこで、区民の皆様方の協力のもと、郷土の歴史を回想し、祖先の残した伝統的な生活文化・産業を記録として後世に残していくことは、意義深く、ひいてはこれが区発展の礎となるものとの思いから「伴中山区の歴史」の編纂に取り組むことになりました。
 しかしながら、何分、1年にも満たない短い編纂期間と少ない文献をもとに不慣れな委員での取組みのことから、不十分な点が多々あると思いますが、内容の至らない点は定期的に機会を設け、訂正・更新していただくとして、本書の発刊が区民の皆様方が郷土を理解する助けとして、区の益々の発展の助けとして多面的に活用していただけることを期待して止みません。

平成20年3月
伴中山区 編纂委員一同

伴谷の由来及び各字の由来

 伴谷は、大字八田、春日、下山、伴中山、山の五大字の総称で明治5年区制施行第二区に入り同18年に併合戸長役場を春日に定め同22年4月町村制実施にあたり伴谷村となった。同年村役場が、伴中山に設置された。明治43年2月25日伴谷村は村是を定め自治の実績を挙げ、内務省の推賞を受け模範村と称せられた。古代より伴谷は、山直氏が支配し、本拠地であった。永久2年8月源義光郷が支配し金光院領とし、永く燈油料を納めさせていた。その後、園城寺内金光院領に転じ、長寛2年以後は柏木荘の御厨司に入った。

大字伴中山 住家110戸
 伴中山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年注進目録に出る中山郷である。中山民部丞(伴氏一族)の所領後柏木御厨司職山中氏の管治下となった。応仁以来、再度伴氏支配下となり天正13年中村一氏、増田長盛、長束正家と代わり、伴上野介資光氏、伴勘左衛門氏の所領となり、寛永11年水口城代小堀遠江守や代官平岡四郎左衛門、鳥居伊賀守となり、正徳2年加藤和泉守より世襲することとなった。明和8年旗本美濃部伊織の支配下、天明以後代官は、岩出伊右衛門、多羅尾四郎右衛門、天保四年稲葉長門守の堤封に入り子孫世襲することとなり、明治維新となった。

地形・地質・山

地形地質
 伴谷地区は変形五角形にして周囲は松尾、名坂、北脇、泉、岩根、下田、蒲生郡に接し、伴中山地区はそのほぼ中央南に位置し、変形長方形を形成している。地質は、青の軟岩、白の軟岩が出、第三紀層と砂土の少し入った土で、四紀層は重粘土地で、土質は、粘質壤土、砂質壤土の土地柄である。

伴中山の山 6カ所
*平尾山、高さ、約6m余り、本村南にあり、周囲約25㎞、平尾、座禅坊、北脇、山村に囲まれる。現在は工業団地。
*高塚山、高さ、約15m余り、周囲約5㎞、正保、南は北脇に接し、現在は工業団地、
*峯道山、高さ約6m余り、周囲約7㎞、南は百姓村、西は六反田、北は春日、東は山村に囲まれる。
*狐山、高さ約6m余り、周囲約2㎞、峯道山の西北に位置す。
*椎木山、高さ約6m、周囲約30㎞、本村西北にあり、北は春日、西は下山、南一帯は神田に面する。
*官山、高さ約8m、面積約2,500㎡伴中山の北東に在り。(明治18年伴中山地誌)による。 

伴中山の小字20カ所
笹尾、正保、北山、座禅坊、神田、城下、平尾、中切、百姓村、小谷、六反田馳登、峯道、杭原、岸田、岩谷、西浦、村外、椎木谷、芳ケ谷。

甲賀武士と伴中山

 甲賀五十三家の内三家は伴中山城主
 中山民部丞は、大字伴中山字神田、西出城主で伴中山の祖、伴一族。
 伴 播磨守、大字伴中山字城下、伴中山城主で現在下山の祖。
 美濃部彦左衛門。八兵衛、家は伴氏より遙かに古い由緒があり(菅氏の末裔)で菅原三郎直茂から後孫茂満の頃(徳川家康、本能寺の変直後、伊賀越えを助けた甲賀武士団の頭領で其の功績により徳川300年間旗本として続いた。
 百姓村に蔵屋敷(居館)あり。西出の西光寺、再興す。

伴中山の城

①伴中山城 大字伴中山字城下
城主:伴 播磨守 伴 左京亮 伴 太郎左衛門尉資家
 富田与平氏宅の北山、土盛高3m、内面積2,000㎡。現在城下、前の県道は堀跡を埋め立て道幅を拡幅されたものである。資家は本能寺の変で信長と共に討ち死にし、遺子資則安土城下に移住し、天正14年豊臣秀次八幡山に城を築きし時八幡に移り、刀剣を脱して商人となり、志を立て地方物産を関東各地に天秤棒を肩にして行商し、寛永年間徳川氏開府の時、機敏にも武蔵野の草を掃い率先、日本橋に店を開き、近江商人の第一号八幡在、近江屋、伴伝兵衛商店の故郷伴中山城。今も近江八幡市の資料館として、亦、明治維新後は八幡小学校、八幡町役場、近江兄弟社図書館として、伴伝兵衛家は、市に寄贈され今も豪商の名残を伝えている。(明治40年発行八幡商業高、近江商人記、八幡、市誌より) 

②西出城 大字伴中山字神田
城主:中山民部丞 伴四郎傔伏祐兼 
 木林栄一氏宅の東北の山、土盛高3メートル。内面積700㎡ 現在は故平田久一氏の茶畑下の土地の名は指南堂と呼ぶ。

③百姓村城 『居館・蔵屋敷』 大字伴中山字百姓村
城主:徳川の旗本、美濃部八兵衛
 平田晃氏宅地 故富田英樹氏宅地と畑。内面積1,600㎡。
 思川改修工事までは現在の河川の辺り竹林内に幅、5m余りの堀跡があり、北と西側には所々に沼地と水路があつた、東側は現在平尾橋に通じる道路が大正12年、伴谷小学校が改築された時、堀跡を埋め立て通学道路となる、先般の下水管敷設工事の時沼地跡の為、矢板を打ち込み大変難工事であった。昭和の始頃までは堀の中に石垣を築き年貢米の蔵があった。昔の竹薮の跡は見違えるばかりである。

④坊村城 大字村外
初田克喜氏裏山、現状初田早苗氏畑荒れ。城主不明。

何れも県教育委員会発行(中世城郭分布図)より。

伴中山区の教育

1.伴中山区の教育 不詳~1874年(明治7年)

 梅田金兵衛に代表される寺子屋による教育が実施される(読書中心)。甲賀郡志には「伴中山の人にして家世々農を業とし父祖より相継ぎて庄屋となり、里民悦服治績大に挙がれり。金兵衛常に邑に不学の徒多きを慨き、自ら家塾を開きて教授すること20余年、明治維新後学制発布せられて郷校起こるや年来の希望達せりとして塾を閉じ、詩歌俳を以て老を養い明治22年6月11日病んで死す。享年76才 資性篤実温厚頗る学を好み風教を維持するを以て自任せりという。」永年伴中山の教育生みの家として伴中山学区の宝庫として保存されてきた梅田金兵衛氏宅も多年の風雪にいたみがひどく今日新築再建の止むなきに至った。なお墓地に建られた石碑には次のような業蹟がきざまれている。

金兵衛翁 頌徳碑
金兵衛翁 頌徳碑

【頌徳碑】
 翁諱嘉寿通称金兵衛、姓梅田氏。近江伴谷邑人。家世業農。翁資性篤厚好学。慶応為里正民悦服。翁常慨邑多不学之徒自開家塾聚徒教授二十余年如一日。及維新後学制発布郷校起自謂吾望達矣、謝徒老千家。明治二十二年六月十一日病歿享年七十有六。葬於平尾山下。後翁門人与謀建碑嘱余銘。余亦従事於教育者同賛其美挙且感翁至誠入人之深。乃序而銘之銘日寡欲保身常謀公益邑務有暇味通之蹟聚徒講経循々誘掖 二十余年 教長是力一朝塾不哀惜 門人建碑 永懐

其徳 明治二十八年九月 天雷 金沢正文撰

経過

*1874年(明治7年)伴中山、下山村連合して余力学校を智禅院の庫裡を仮用して開放される。
*1880年(明治13年)余力学校より下山学区分離して下山学校を設立される
*1886年(明治19年4月)春日村に春日尋常小学校が置かれる。通学区域は、八田、春日、伴中山、山、下山。
*1887年(明治20年1月10日)春日尋常小学校の支校が伴中山に置かれる。
*1888年(明治21年)春日尋常小学校が伴谷尋常小学校と改称される。
*1889年(明治22年)伴谷尋常小学校の本校が伴中山に置かれる。
*1890年(明治23年11月)小学校令改正小学校簡易科が廃止される。尋常小学校が三校に決定される。 ・中山尋常小学校(伴中山)・春日尋常小学校(春日)・上山尋常小学校(山)
*1901年(明治34年)尋常小学校三校が廃止される。中山尋常小学校が伴谷小学校の本校となる。春日、上山分教場が置かれる。
*1903年(明治36年3月16日)現在地に新校舎の建築が開始される。新校舎建築位置で当時、非常にもめたが、八田・山村・下山の各最端から測量した中央地点(八田、下山、山からの同距離地点)を最適地としてまとまり現在地に建設されることとなった。

 従来一村ニ二校ヲ設ケ維持シ来リシモ時世ノ変遷ニ従ヒ教務ノ統一ト経ノ順調ヲ顧慮シテ一村一校トナシ即チ春日、上山ノ両分教場ヲ廃シテ元中山尋常小学校ヲ本校トシ更ニ改メテ伴谷尋常小学校ト改称シ而シテ明治36年2月村ノ中央ナル大字伴中山ニ於テ新タニ位置ヲ定メ校舎ヲ建築セントスルニ方リ通学ノ不便ヲ口ニシテ茲ニ村内300戸以上ノ連署ヲ以テ異議ヲ唱フルニ依リ経営上一時障害ヲ来シ、困難ノ状アリシモ好機逸スヘカラサルモノアリ百万意思ノ流通ヲ謀リ終ニ協同一致ノ結果 々位置ヲ確定シテ明治35年新築ノ工ヲ起シ37年2月、経費9,770円多数ノ奉使人夫ヲ得テ竣工ヲ告ケタリ。

*明治37年2月5日 新校舎竣工春日、上山分教場が廃止され、本校に全児童が収容される。一村一校が定まる。
*大正2年4月 伴谷尋常小学校に高等科2年が併設される。水口高等小学校より離脱伴谷尋常高等小学校となる。
*大正5年 伴谷尋常高等小学校新校舎一棟及び裁縫室新築される。
*大正14年 伴谷尋常高等小学校の運動場拡張工事完成
*昭和3年 伴谷尋常高等小学校講堂、家事室、宿直室新築される。
*昭和10年 青年学校始まる。
*昭和16年 小学校の名称が「伴谷国民学校」と改称される。初等科6年 高等科2年
*昭和19年 大阪津守国民学校児童73名集団疎開し、共学する。
*昭和20年 8月終戦、男女共学が開始され現在に至る。

2.伴中山の公民館

*2代目公民館 昭和29年竣工。
建築資料等不詳。

2代目伴中山公民館
2代目伴中山公民館

*3代目公民館
平成10年6月1日。工期 着手 平成11年3月21日。竣工
・工事費 43,575,000円
・木造平屋建て床面積 326㎡ 
・玄関面積 14.5㎡

3代目現在の公民館
3代目現在の公民館
3代目公民館立面図
3代目公民館立面図

伴中山の行政

地券の発行
 明治3年より伴中山戸長役場にて維新の国家に重要なる戸籍の編成、地券の発令等に係られた先人の記録によると、「以前の土地の測量は誤差甚だしく、地元農民の重税に帰するを訴えその筋に於いても之を酌量して、明治9年に至り、再丈量を命ぜられその結果約十分の一に該る十町歩の減歩を実現し、農民各自が愁眉を啓くと同時に最大奮励、調査の分担を任せられてより昼夜の別なく、冬季の水田の測量には氷結の土地を踏み、連月に亘り従事せし事、尋常の業にあらずして、寝食も儘ならざりし事、実に頻々たりし」とある。当時の伴中山全体の地籍図が三十八社の古文書の中から発見され、是に基づき明治11年個人の地権が発生し、滋賀県知事より各自に地券が発行されたと考えられる。

天保一揆の呼びだし状
 天保13年10月15日伴の谷一帯の村に出されたもので、不参加の場合はその村へ押し寄せ打ち壊すという一揆回状特有の強制の文言が書かれている。この回状は甲賀137ケ村ふれまわされた物の実物で旧甲賀郡で唯一保存されている貴重文書である。

 一、この度川筋山辺に至るまでご検分につち昨夜よりまかり出で今十五日夜本揃いに候間、残らず出立致させ申さるべく候。不参これ有るにおいては、その村へ押し寄せ打ちこはち申すべく候不ものなり。

 天保一揆とは1842年(天保13年)10月、野洲郡(今の野洲市・守山市・近江八幡市の一部)栗太郡(今の栗東市・草津市・大津市の一部)、甲賀郡(今の甲賀市・湖南市)に住むたくさんの人たちが、自分たちの生活を守る為に命をかけて起ちあがった大事件である。米やお金に幕府がいよいよ、行き詰まり少しでも沢山の年貢を取るために、今までの一間6尺1寸(182㎝)でなく1間5尺8寸(176㎝)で見分し1反に22坪の面積を多く測りその分年貢を多く集めようとした為、野洲・栗太・甲賀の375村の農民が庄屋を先頭に4万人、三上の幕府代官所に押し寄せ、見分を止めるよう必死に願い、遂に「10万日」西暦2116年までの見分の日延べを認めさせた。しかし是で全てが終わりではなく首謀者は勿論の事一揆に加わった者達それぞれに、罰が与えられ伴中山の総代2名も中追放の罪に処せられている。
 百姓清八(現富田喜与一さんの高祖父)、百姓伝三郎(現中森一夫さんの高祖父)

三十八社 大字伴中山字神田鎮座
 延喜式内神社は格式の一つで、京都御所を守護する宮といわれ、水口では、北内貴の川田神社と水口神社で、

水口では、北内貴の川田神社と水口神社で、伴中山の三十八社は、惣社とよばれていた。伴中山は明治時代から区の申し合わせ事項として決められたことを見回る役員のことを「看守社」と云った。

決め事は次の2件。
①田の上の「ケロ(雑草地)」には稲作の日陰になるので、松や杉等、大きくなる木は生やさない様にする。
②毎年、伴中山区の山林全体を松茸山として競売に賭けられるので、期間内 (秋の彼岸~11月3日迄)は各戸入山禁止の以上2件の事。見回る監視をするのが看守社の役割であった。然し、戦時中は若者が皆徴兵され中断せざるを得なかったが、戦後青年団が復活し近年まで続けられた。参堂入り口大鳥居前の大きい石灯篭東側は、明治34年伴中山看守社(伴中山の若い衆が入会権区域境界の見回りと)松茸山の入札売り上げ金を以て献納、西側は当地、坊村出身で現在八王寺市在住の元造り酒屋(屋号、角八)富田鉄治郎氏が同年御寄進されたものである。

三十八社神輿
三十八社神輿
神輿裏板
神輿裏板

 元禄時代建築の旧拝殿は老朽化し倒壊寸前となり氏子の寄進より平成元年新築される。近郷にはない、立禮式の近代的な拝殿。
 春の大祭は近江祭りの4月20日に近年まで祭祀されていたが時代と共に御神輿の担ぎ手の手配が困難になり、4月の第3日曜日に変更され例年とり行われている。当社の御神輿の由来は定かでないが神輿の底板には、慶長16年亥年8月、…日とまでは判読出来る墨跡、鮮やかな文字があり神輿の新造された年月か? 社伝記録には元禄10丁丑年2月吉祥日(1697)年建立成就とあり、何れにしても何百年の年月を経た物で大切にお守りすべき宝物である。

本殿は二間社で他社に余り類が無く現市の重要文化財に指定されている

祭神:国狭槌命 瓊々杵尊 菅原道真公
社殿:二間社流造桧皮葺 間口:十二尺 奥行:六尺 南面
由緒:延長四年勘進建立伴谷村の惣社で、三十八所大明神として祀る神は、の守護神として祀り、慈恵大師奉勅により勘進建立した智禅院中山天神七代地神五代般若十六善神法華十羅刹以上の三十八神を中山寺寺、又中山神社と言った時もあり祭神 国狭槌命 瓊々杵尊 菅原道真公を合わせ祀る、又 社務所内には一尺余りの円石で占石であり、山村神社と同じように吉凶を占うものである。

現在の社務所は昭和48年4月20日新築竣工。区の補助金300万円、他。氏子寄付金等合計で1,000万円を費やし完成された。

境内社:八幡神社 勝手神社 今宮神社 金比羅神社 秋葉神社 皇太神宮遥拝所 稲荷神社 
境外社:天神山々頂に水受(スズケ)神社〔祭神、八大龍王〕 

 伴谷小学校奉安殿(天皇の御真影を祭るところ)として小学校裏の台地にあった物を、忠魂碑と共に壊される処をこっそりと現在の場所に移築し、神饌殿として使用されている。

太鼓橋
川が無く橋だけが残された、石橋がある。

 この下馬所反橋は貞享元甲子年9月20日(1685)年の建立と記録にあり、24枚の板石を2列にならべ中央に3本の橋脚を立て、ぬきを用いた構造となっている。この様式はめずらしく、甲賀市内には嶬峨の八坂神社・水口の水口神社の三社のみで石造物として良く出来ていると、甲賀の有名な石造物として記録に残されている。
『甲賀の石造文化財より』

湯釜
甲賀伴中山村三十八所御釜。

銘文(胴部陽鋳):御湯・鉄湯釜・慶安4年12月吉日・(1651)大工、辻村(栗東市・葉山・辻村)田中理兵衛

平成14年10月20日~11月24日まで栗東歴史民族博物館で企画展「近江の鋳物師。辻村の鋳物師の活躍」が開催され、三十八社の「湯釜」の出展依頼の要請で展示した。全国的にも有名な貴重な宝物である。

忠魂碑

 伴谷小学校裏山頂上に祭られていた忠魂碑を戦後処理として廃棄命令が出された時、村人がこっそりと、現在地に牛車(車を牛に曳かせる)にて運びお祭りしている。霊域には戦没者の名を刻んだ墓碑があり、毎年3月初旬地区顕彰会にて、盛大に法事を営んでいる。

日清・日露以降の伴中山出身御英霊伴中山戦没者御芳名

御芳名死亡年月日付 記
1藤岡 栄太郎明治38・03・01
2富田 仙太郎昭和12・11・24京都在住
3栢木 利一昭和14・04・14
4嶋林 四郎昭和15・10・01
5前田 茂昭和18・10・09
6藤岡 忠夫昭和18・11・26
7平田 次雄昭和19・02・25
8富田 勇昭和19・04・04
9西川 三代治昭和19・08・25
10平田 義美昭和19・10・25
11寺村 宗一昭和19・11・22
12西川 嘉平昭和19・12・04
13早瀬 義一昭和19・12・08
14前田 義次昭和20・03・08
15中井 富三昭和20・03・10
16前田 敏雄昭和20・03・27
17富田 幸吉昭和20・04・24
18初田 敏人昭和21・03・02
19藤岡 安喜雄昭和21・03・19

寺の由来

天台宗 智禅院(大字伴中山字神田)
本尊:子安延命地蔵尊であり秘仏で国の重要文化財である。
由緒:創建不詳であるが、約千年前のものと思われる。天正初年より慶長7年までは廃絶同様で同年甲賀市信楽町宮町の飯道寺より教仙坊が転住し再興。また一説には貞元元年僧良源が勅を奉じ創立し慶長7年再興した。同寺は信徒寺で大字伴中山105戸と大字下山の臼井家も信徒である。

 本尊子安延命地蔵尊は33年に一度の開扉している。他に釣鐘堂。閻魔堂があり、十玉舎魔焔大王の仏像がある。現在の建物は信徒の寄進により建立されたもので、本尊子安延命地蔵尊は貞元年間僧良源が本寺に留鍚中の作と伝わっている。境内地は、405坪である。毎年8月23日大般若教転読法要と、護摩供養が村内安全を祈り勧められている。明治初年、中興より当住職玆淵迄13世と記録にある。

②浄土宗 清治山 正見院 良徳寺(大字伴中山字城下)

由緒:大永2年僧隆眞開基で、その後廃絶したが、正徳3年再興。当寺は清治山と号し安土浄厳院の末寺でその後、明治23年京都市智恩院の末属となった。又相伝によると文安年間清治房と称する僧が一堂庵を建て、その後九品寺の僧隆眞が一寺をなしたりと聞く。この寺は水口町美濃部出身で旗本美濃部栄治郎氏の寺と聞き及んでいる。

主な什宝:寺額(良徳寺)元禄未年12月吉日
伏鐘:明和6年 双盤:明和7年 灯篭:寛政12年 檀家:30数戸 境内地:174坪

 明治初期、中興より住職證道まで30世と記録にあり。良徳寺守護神 稲荷社 本堂裏寺山の山頂に祭祀されている祠は平成19年の本堂改築事石造祠に新築された。祭礼は2月の初午と7月18日納涼祭があり、(馬、城、宝、堂)の垣内の若者が祭主で余興など盛大な時期もあった。今は念仏講が当番を決め勤めている。

浄土宗 百万遍派 誓演山 西光寺(伴中山神田2563番地)

本尊:阿弥陀如来 秘仏
堂宇:もとは、方三間半の藁葺きであったものを、近年特に老朽化甚だしく、故に平成8年3月再建、木造入母造り瓦葺き、35坪。
山門:もと6尺と間口7尺の瓦葺き両袖付き山門あり。老朽化のため、戦後まもなくブロック門となる。由緒:開基は天正元年本譽上人であったが、その後廃絶し貞亨四年再興した。誓演山と号して水口町心光寺の末寺で京都市百万遍派に属す。境内に「天正七己卯(1579)年八月廿四日覚阿弥佛」と刻銘の石五輪塔。当地初代領主、旗本美濃部茂廣当寺に葬られる。法名は一岩松院殿月窓貞円居士、慶長10年2月15日没。中興より当住職清譽まで17世とある。貞亨四丁卯(1687)年、當知院殿本譽誓演大姉再興(郡志による)。本尊後背に「為當知院殿本譽誓演大姉菩提也、当寺本尊、堂共寄持之、施主菅原氏美濃部彦左衛門」と刻銘あり。当寺は旗本美濃部彦十郎の寺で墓地内には美濃部氏歴代領主の墓石六基あり。
檀家:10数戸 境内地:196坪
隣接の原野に当寺の守護社として美濃部氏遠祖の菅原道真公を祀る天満神社あり。大正6年1月に村社三十八社に合祀される。
什宝 双盤:正徳五年八月十五日京堀川住筑後大掾常味作の刻名有り。直径32㎝
鉦鼓:同上 菊灯篭:文政10年 軸 涅槃像 1幅
その他:浅間社 大日如来石像 山ノ神 野神を詞り村中安全を祈願する。

④浄土宗 国王山 清福寺(伴中山字村外)

本尊:阿弥陀如来
由緒:開基は不詳で、国王山清福寺と号し、享保元年再興し、僧は不詳で、水口藩加藤家の菩提寺であり、安土浄厳院の末寺で、明治23年京都市智恩院の末属となった。昭和27年9月寺院等の改正法施行に当り当時住職の高須博導師は単立寺院として独立し浄土宗清福寺となった。現在は京都市智恩院の末属となった。建武2年の宝篋印塔が市重文。
檀家:30数戸 境内地:276坪
明治初年中興より当住職了忍まで16世とあり。

⑤浄土宗 旭照山 円珠院 東光寺(大字伴中山字百姓村)

由緒:開基は隆阿上人にして大永元年で、その後廃絶同様となった。享保11年中興恵立上人により再興し、旭照山東光寺と号し京都智恩院の末寺に属し、当寺は徳川氏の旗本美濃部八十郎氏の寺であり、当時は檀家50戸、現在檀家23戸境内地:228坪 墓地100坪。
本尊:阿弥陀如来 脇佛 勢至 観音貮菩薩 善導宗祖両大師 誕生佛
主たる什宝 華鬢:元禄12年3月の在銘 双盤:享保11年2月の在銘 半鐘:寛延4年1月の在銘。涅槃像 一幅 立巾・横巾6尺
 明治以降 檀家減少に伴い維持の窮迫を来たし,明治35年以来住職を置けず兼務を懇請し漸く祭事を勤める。中興より最後の瑞円和尚で26世。
 行者講の始まりは定かで無いが明治以前は東光寺の前(富田健治氏)南側、南東隅に一段高い約 (2米)30坪余りの台地があり中央に10坪余りの建物の跡が残されている。通称行者山と昔から伝えられ、現在は寺山として管理されている。昭和60年頃までは毎月6日に講が勤められていたが近年は月末の常会の日に合わせて勤められている。御厨子内には木像の役の行者像が祭られており、時代は定かでは無いが余りにも立派な物なので遠路より拝観に来られる方もある。

津島神社

由緒:津島神社の勧請。当垣内北東の隅に年代は不詳なれど(江戸中期)頃、地区に疫病大発生し此れを鎮めんとし。村人、愛知県津島神社を勧請近年までは7月14日を祭典日とし、当番村人で現在も津島神社に代参する。 境内地:約30坪
境内:昭和22~23年頃までは毎年夏祭りとして(涼み)青年たちの素人芝居や戦後食糧難の時代は、NHKのラジオ等で活躍されている超一流の浪曲師等が食料を求めて来演され、近郷でも有名になり賑わった。

⑦埋葬墓地 平尾墓地(比羅尾)

 明治の始め、疫病等、大流行し、其れまで各寺院共寺内の墓地に埋葬されていたが、衛生上の観点から平尾地先、寺山隣地、山村境界の山林4反歩余りを富田譽兵衛氏(喜与一)氏より東光寺に寄進戴き、伴中山、山の5か寺の共同墓地と成る。六体地藏。六字名号塔には東光寺の銘が刻まれている。

⑧埋葬墓地 良徳寺墓地

 埋葬地 字笹尾(ダンゴ田)に在る。明治初期の頃に伴中山区を三十八社を境として二分し、東は平尾、西は笹尾となった。良徳寺は北山、通称ハン木谷の一角にあり、昭和の構造改善事業に開拓され、遺骨等多数出土、尚、良徳寺の西隅にも埋葬棺遺跡骨が出土し共に供養した。

⑨旧宝蔵寺廃寺痕(天台宗)座禅坊

 現田林賢三氏南東。最近まで墓石があった。ここの本尊阿弥陀如来。坐像は現在良徳寺の本尊と伝えられている。創立不明。元亀年間織田信長の焼き討ちにより消失し廃寺となった。

電力・上下水道・河川

①電力
 伴谷地区は、大正8年宇治川電力会社の相川発電所より水口変電所を経て、伴谷下田線として出来、その時の電気技師が現在水口在住の菊池善治郎氏の父親で、村人も一緒になって汗をながし、その後、現在の関西電力に引き継がれたものである。

②上水道
 昭和35年伴谷にも上水道が出来るようになり、最初は下山と伴中山で実施した。当時の負担金は、下山一戸当り9,200余円、伴中山は8,600余円であった。昭和41年山、春日、八田が着工し完成した。一戸当り35,600余円であった。昭和59年二三四会、広野台に地元住民の努力により念願の上水道が完成した。負担金は一戸当り6万余円であった。伴谷の全ての家庭で上水道を利用出来るようになった。

③公共下水道
 平成5年より農村下水道が、春日と八田で供用開始された。公共下水道は、平成14年山で供用開始され、平成17年伴中山、下山で供用開始となり、平成16年より菅谷と広野台東で着工され平成22年度には、伴谷全域で供用開始の計画である。

④河川
(1)思ひ川
着工:昭和30年
昭和26年4月30日 県議会議員地平氏へ陳情
昭和27年11月8日 河川改修認可
昭和28年12月15日 旧河川敷、無償払下げ陳情(土木事務所長)
陳情者:伴谷村思ひ川河川委員会
委員長:吉田徹一
委 員:富田悦一 杉田一良 平田久一
橋本善治 伴 隆一 佐井正蔵 

 思ひ川は甲賀、蒲生郡界の丘陵地帯に源を発し、当村を東西に貫流し湖南市花園地先より野洲川に合流し流路延長12㎞天然河岸河川であるが、流水緩く水深2mを超える箇所も多く、流路蛇行しその湾曲は350箇所を数え河積狭少で河岸は垂直し、雑草木が繁茂散生して狐狸の生殖地となる有様で且つ沿線の稲作にも日陰のため、年々減少となり又、藤萱流木のため著しく流れを阻止溜水を来たし降雨出水毎に溜流は家屋、道路、耕地に浸水し甚だしい被害を与えているのである。昭和26年思ひ川を改修し耕地の保全と民生の安全を図らんと企画し国に陳情を重ねた結果、昭和27年11月思ひ川改修を許され大字下山地先より上流に年々国費を以って予算の範囲内において施工されることとなった。

・・・・記録の抜粋・・・・

 最も被害の大きい下山地先の出水状況を降雨毎に踏査、昭和24年より企画、昭和25年1月19日下山常会に出向し計画に協力を願う。4月6日前々日の降雨により流水状況を(堤防)踏査5月2日土木職員と検証する。

思ひ川河川改修竣工記念碑(宇野宗佑 書)
思ひ川河川改修竣工記念碑(宇野宗佑 書)
思ひ川河川敷
思ひ川河川敷

(2)河川改修

 思ひ川は、雑草、雑木、竹薮等多く廻りくねった川であったので、水害等が非常に多く発生し、長い間住民Vは悩まされていたが、昭和28年度より下流である下山から着工し、38年度より伴中山、昭和57年度完成し、住民の喜びは大きかった。当初は旧河川敷は水口土木事務所。担当課長との口約束で無償との事で最後までれを信じ、県当局がすべて登記事務処理までしてくれるものと思い、災害復旧による国費工事、故に新河川敷地の用地代金は個々に受取、負担は無く大変喜ばしいことで有ったが旧河川敷無料払い下げという事には成らず公有財産払い下げの審議をえて漸く地権者のものになった。その後、坊谷川の改修も進み、周辺の雑木、竹やぶもなく、度重なる水害もなく、見晴らしも好くなり、此れも宇野宗佑代議士(第75代内閣総理大臣)の尽力の賜であり住民皆、感謝するところである。

(3)思ひ川・河川委員会推進事項

  1. 旧河川敷払い下げについて
     滋賀県公有財産審議会の決定した価格となる。無償払い下げにはならないから周知徹底する。地区住民は区の事業として自分たちで土木工事をしたのであくまでも旧河川敷は無償と考えられていた。(委員会)

     伴中山地先の旧河川払い下げ面積は、5.717㎡である。

     旧河川敷の鑑定評価額は当時反当り310万円とされていた。但し、埋め立て工事費200万円を差し引き110万円となり。5.717㎡の払い下げ価格629万円が当時の評価額であった為、宇野代議士、種村県会議員、藤本町会議員に価格の引き下げを懇願し、特に種村県議には、毎週の如く県の用地課の担当者と交渉に当たって戴いた。
  2. 換地処分について
    ①伴谷土地改良区に委託する。
    ②確定測量 昭和56年水稲刈り取り後に着手する。
    ③換地計画
     山林、原野等は不換地処分とする。減歩率は各工区の減歩率による(一率にはしない。)清算金は支払わない。土地の配分は現所有者のとおりとする。
  3. 経費について
    ①換地処分、確定測量 (公図作成費を含む)その他、150万円
    ②換地処分費、確定測量費については、水口町に補助申請中
    ③伴中山特別会計(受益者拠出金)は昭和56年9月現在290万円
    ④経費の不足分については検討
  4. 払い下げ完了
     昭和57年3月に入り県土木事務所用地課に於いて書類作成。公有財産審議会にて4月下旬、審議を経て、反当り298,000円で決定される。7月24日.河川印特別会計定期預金、利子を含め3,142,000円を解約用地代金。1,704,000円を国庫に納入。換地、測量、登記費86万円払い下げ促進費等、諸経費を清算残金462,000円を区の会計に繰り入れた。此処に区民の20年間の悲願が叶い地権者の登記事務が完了した。最後に種村県会議員のご努力に感謝し、敬意を表するものである。

(4)坊谷川災害関連事業概要書

  1. 流域の概要
     坊谷川は、水口町の北西部に位置し、其の源は日野町境にある標高182.7mの丘陵部に端を発し水口町春日・伴中山を縦走して思い川に合流している。其の流域面積3.0㎢、流路延長3.5㎞の一級河川である。当該河川は、近年宅地造成ゴルフ場、又、圃場整備等の大規模な開発による急激な流域の地形変化に伴い、流出量が増大し出水による被害は年々増加する一途であった。特に伴中山地先に於いては、昭和55年5月31日~6月1日にかけての集中豪雨により、その河川流路の大半が決壊し、田畑に甚大な被害を被ったため、昭和55年度に於いて、災害関連事業として採択され着手した。
  2. 事業の目的
     この災害関連事業は、単に現状復旧に止まらず、治水対策として河積の拡大、河道線形の是正などを実施し、今後の被害を未然に防ぎ、民生の安定を図るものである。
  3. 工事緒元
    所在地 :水口町大字伴中山
    河川名 :1級河川「坊谷川」
    工事月日:昭和56年2月~昭和58年3月
    総事業費:2億2,400万円
  4. 設計緒元
    流域面積:30㎢
    計画高水流量:30㌧/分 10年確立(思川合流点)
    23㌧/分 10年確立(岩谷川合流点上流)
  5. 工事概要
    全体施工延長:L=1.058m護岸積みブロック:A=5.047㎡
    床止工 町道橋:2基 農道橋:2 橋水路橋:2橋
    ポンプ取水工:1基用用地保障1式
  6. 年度別事業費
    昭和55年度 8,000万円L=269m
    昭和56年度 7,750万円L=451m
    昭和57年度 6,650万円L=338m
  7. 用地取得費
    30,540,260円 (8,257.3㎡)
  8. 付帯事業
     坊谷川改修工事に便乗して彼岸田小規模土地改良を町単属事業として25筆・8.499㎡を整備する。工事費は175万円。内40%の768,000円を町より補助金として受け取る。(10アール当たり、約115,500円)。現在の圃場なっている。昭和58年3月24日坊谷川現地で関係者相集い神事で竣工報告祭を行う。

交通

 大正の初期、中井清吉氏・宮路茂兵衛氏の援助で初めて人力車が導入された。車夫は春日の萩本久三郎と宿谷英三の両氏が任じられた。水口の朝日医院の老先生も萩本氏の運転以外は安心して乗つていられないと、大変な信用で大雪の中でも重用されていた様である。大正中期より、山村の山北平吉氏が三雲・水口間を馬車を運行され、山村神社の初天神や、代々講の当日は三雲から、また近江鉄道水口駅より沢山の参拝者を運び重用された。また、平吉氏の長男、伊造氏は昭和初期より三雲駅前に日産の小型車:ダットサンを配置、円タク(どこまで乗車しても1円)を開業され伴谷の交通手段の一つでした。
 昭和22年、時の国鉄自動車局長菅健次郎氏が水口町出身で、先祖が水口藩士、山村の玉台寺が菩提寺であり、また、伴中山にも学校友達もある事から国鉄バスが水口と三雲間で運行され、その後滋賀交通も運行され共に水口・八田・三雲間を数往複されていた。現在工業団地や住宅が開発され自家用車や、大型車両が、増大公共交通の役目を脅かし遂に廃止の憂き目にあった。現在は自家用車の利用の恩恵を受けられない方のため、市営のはーとバスが運行され地域住民の足として恩恵を与えている。

県道

  • 県道水口竜王線
    里北脇-馬場橋 起工式:昭和40年2月27日午前10時より
    馬場橋-伴谷小学校
    伴谷小学校-春日境
  • 県道泉日野線
    馬場橋-下山境(城下)第一次昭和26年~
    長徳橋-山境

市道

  • 北脇八田幹線
    吉中化成-春日境
    工業団地-吉中化成
  • 伴中山神田1号線
    県道水口竜王線伴中山交差点(鳥本宅)-北脇八田幹線
  • 伴中山神田2号線
    県道水口竜王線(消防車庫)-智禅院
  • 伴中山神田3号線
    県道水口竜王線(杉田宅)-西出集会所
  • 伴中山神田4号線
    伴中山神田5号線(中島宅)-富田宅
  • 伴中山神田5号線
    県道水口竜王線(嶋田宅)-伴中山神田1号線
    県道水口竜王線(農協)-思ひ川
  • 伴中山神田6号線
    思ひ川-ひのきが丘
  • 伴中山彼岸田1号線
    県道水口竜王線(小学校体育館)-県道水口竜王線(広瀬宅)
  • 伴中山彼岸田2号線
    県道水口竜王線(広瀬宅)-伴中山彼岸田3号線(笠井宅)
    伴中山彼岸田3号線(藤岡宅)-伴中山彼岸田3号線(比羅尾橋)
  • 伴中山彼岸田3号線
    県道水口竜王線(小学校)-県道泉日野線(伴谷総合運動公園)
  • 伴中山彼岸田4号線
    県道水口竜王線(小学校グラウンド)-北脇八田幹線
  • 伴中山百姓村線
    伴中山彼岸田2号線(喜多宅)-伴中山彼岸田3号線(中島宅)
    伴中山彼岸田3号線(藤岡宅)-東光寺
  • 伴中山村外1号線
    県道水口竜王線(初田宅)-県道水口竜王線伴中山北交差点(東村宅)
  • 伴中山村外2号線
    県道水口竜王線(初田宅)-伴中山村外1号線(初田宅)
  • 伴中山城下3号線
    県道泉日野線(寺村宅)-伴中山正保線
  • 伴中山城下4号線
    県道泉日野線(橋本宅)-伴中山神田1号線(嶋林宅)
    伴中山神田1号線(嶋林宅)-三十八社参道
  • 伴中山正保線
    県道水口竜王線(藤本宅)-北脇八田幹線
  • 山下山幹線
    県道水口竜王線交差点(ひのきが丘入口)-北脇八田幹線
  • 伴中山笹尾2号線
    県道水口竜王線(墓地入口)-下山伴中山線(墓地)
  • 下山伴中山線
    伴中山さつきが丘線(傍田宅)-北脇八田線-山下山幹線
    山下山幹線-県道水口竜王線(ダイゴダ川起点)
  • 下山春日線
    県道泉日野線(吉中化成)-春日八田線
  • 伴中山北山2号線
    北脇八田幹線-下山春日線
  • 伴中山椎之木谷線
    北脇八田幹線-伴中山北山2号線
  • 伴中山春日線
    北脇八田幹線-春日八田線
  • 春日八田線
    県道春日竜王線-湖南市境

耕地の基盤整備

1.第二次農業構造改善事業

【趣旨】 昭和44年3月14日。水口町役場より第2次構造改善事業促進対策要綱(案)が当地区に示され、其の趣旨は近年に於けるわが国の経済の高度成長に伴う国民所得の増大、生活水準の向上、食料需要の変化、国土利用の変貌、このような中で農業の近代化へ、農業経営者側の構造的対応を確立する為の、必要な事業を総合的に実施しようとするものである。

【方針】 その方針として自立経営の規模の拡大、生産性の高い、地域農業の中核的な農業構造を図り究極の目標として、規模の拡大及び生産の組織化を図り改善を推進する。

【期間】 この対策は、農業を振興すべき地域で、農業者の意向、土地条件、生産の組織化の条件の整った地区で、昭和44年以降10年間で改善計画を樹立、実施するものとする。是により当地区は昭和44年5月10日以来度重なる区民の会合、地域の計画、受益者の会合、難問山積、地域指定推薦を再々町役場に返上するも聞き入れられず、然し、将来を展望し昭和45年当地区民一同が、農業の将来展望を考え、受け入れ、計画、実施された。昭和67年(平成4年)3月借入金返済完了予定を、平成2年2月10日を以て繰り上げ償還之を以て返済完了。

【内容】 昭和46年11月15日「伴中山茶生産組合」発足 組合長:平田 久一氏

 組合員一致協力して茶生産の進歩的技術の導入により、生産性の向上、農業経済の安定を図り以て茶生産振興に資するを目的とする。

昭和46年度事業費:2,174,000円
面積:5.39ha
借入金:1,730,000円
昭和47年度事業費:4,792,000円
面積:11.00ha
借入金 3,830,000円
昭和50年1月21日(毎日新聞)

 構造改善事業の一環として、16haを茶畑として開拓。初のケースとして「伴中山茶生産組合」として共同茶園を昭和45年から2年間県が6,200万円で県下で造成する。

2.土地改良区50年の歩み
 農林省では昭和30年代後半になると、第一次構造改善事業が打ち出され当土地改良区では、取り入れなかったが、水口町では、昭和37年に町営で和野地区の圃場整備が施工された。その後昭和40年に第二次構造改善事業が打ち出され、当土地改良区も、春日・山・伴中山区が計画区域に指定された。春日地区は団体営圃場整備事業に切り替えて、昭和45年度より施工されたが山地区では返上され施工されなかった。伴中山地区は、色々な問題が山積されていた。この構造改善事業には農業施設がセットされていて、其の施設が既に農業協同組合にて着工されていたので、農用地の整備は取りやめる事が出来ず、伴中山地先で圃場整備と山林を切り開いて茶園用の農地開発事業が当初の全体計画を変更して許可を得て事業を施工した。

3.伴谷地区県営圃場整備事業・伴中山の概況
 伴中山地区は、第三次水口町総合発展計画により、北部丘陵地の「緑」の保全と活用を目指すゾーン、中央部の農業振興ゾーンは、古来より良質米を産し、水口町の農業を担ってきた。本事業区域は、北部寄り一級河川、思川、及び支流の坊谷川、流域に開けた沖積平野からなる、水田地帯である。地形、勾配の主傾斜は、1/100から1/300程度の傾斜で、周囲に丘陵地を有し標高は145mから187mであり、東西に2㎞、南北に1.5㎞のヤツデ状の形状をなしている。

 圃場の現状については、区画は不正形で狭小、農道の幅員も狭く、水路は用、排水兼用の土水路であるため、乾田化が図れず、効率的な機械化農業が出来ず、時代に即応した農業経営に支障を来たしていた。其の為本事業は、山・伴中山・下山3地区148haを対象に土地基盤整備を実施し、区画整理、農道及び用排水路の整備と楊水機の設置と堀池による水源確保の整備をし、農地の集団化を図り、大型機械の導入と近代化施設の利用による農業を確立し、農地の多角利用と農家所得の安定確保を図り、環境整備事業の農村下水道整備要望基準、地域農家戸数の70%、農地の70%の基準を充たし、緑に包まれ、其の上都会にも負けない今日の快適な生活が営まれる様になった。
 農村下水工事着工、直前に幸いにも国の補助対象がかわり、山・伴中山・下山地域は工業下水に組み込まれ、春日・八田地区の様に地域での下水処理の管理を免れ、是も政治的な力の御陰を被った事も確かである。当時は環境の話を幾らされても聞く耳を持たず、ただ第 二次構造改善事業に対する不満から、また、農業を取り巻く悪環境から、再三事業の諦めも何度か有ったが地区百年の大計が実り、明治9年測量登記、地権の確保より120年目に、ご先祖様より受け継いだ農地が平面化し、新しい地番に生まれ変わり、子々孫々まで美田を伝える事が出来たのは喜びの極みである。

4.伴中山圃場整備事業の経過及び内容
 昭和56年、さつきが丘の工業団地の開発、買収契約の調印された時点で、用水ため池が正保地域で無くなり、灌漑用水の確保の為にも是非圃場整備事業の計画、指導、補助、予算面での配慮を町当局に要望し、その後歴代の区長の申し送り事項となる。その後何度か圃場整備の話はあったが、機が熟せず昭和60年県並びに町土地改良課より未開発の土地についての、県営圃場整備の利点について説明がなされ集団化による無駄が省け、環境を含めた村づくりの基礎が出来、補助率が高いこと等の度重なる説明会の中で、この際農村発展の為には基盤整備の必要性を感じるようになり、その結果地権者に対するアンケートを実施し、区民の心底を知ることに勤めた。然し何百年来の先祖伝来の所有地を変える事業については、個人の欲望が交差し、かなりの抵抗があったが、話し合いにより百年の大計に向って地権者の同意を得ることが出来た。そうして色々の手続きを経て、昭和61年12月1日、先ず山地区に於いて起工式が行われ工事中の安全と1日も早い竣工を祈念した。
 伴中山、上地区に於いては一部如何しても同意の得られない方が有ったが、昭和61年2月16日区長、改良組合長主催の推進委員会が開かれ、続いて同28日第2回を開催、同3月15日県営圃場整備事業の推進に係る事の確認覚書を区長より町長に提出した。しかし地域としてその後8回にも及ぶ地権者に対する説明会を得て漸く平成3年1月24日正式に願書を提出、3月14日委員の選出に漕ぎ着け、その後も20数回に及ぶ打ち合わせを経て平成4年9月11日工事の無事を祈り起工式を執り行った。その後は工事も順調に進み遂に世紀の大事業が平成8年3月竣工した。

  1. 正保・北山
    ①事業区域:水口町伴中山 正保・北山
    ②区域面積:857.00a
    ③事業量:整地工・道路工・用水路工・暗渠排水工・測量・換地一式
    ④総事業費:125,986,930円 地元負担:28,347,060円
    ⑤事業期間:昭和61年2月~平成8年3月
    ⑥事業負担区分 工事費22.5% 事務費25.0%
    (国費)45.0% 50.0%
    (県費)32.5% 25.0%
    (地元)22.5% 25.0%
    ⑦10a当り工事費=1,469,780円 地元負担≒330,700円
  2. 中切・六反田・杭原
    ①事業区域:水口町伴中山 中切・六反田・杭原
    ②区域面積:727.58a
    ③事業量:整地工・道路工・用水路工・暗渠排水工・測量・換地一式
    ④総事業費:135,197,424円 地元負担=30,419,420円
    ⑤事業期間:昭和61年2月~平成8年3月
    ⑥10a当り工事費≒1,858,180円 地元負担≒418,100円

5.岩谷池ため池等整備事業
 岩谷池の当初の整備は不詳であるが、昭和25年頃池の桁の整備(ハガネ入れ)が、農家の奉仕作業で実施された。流域は山すその土堀水路から、岩谷、彼岸田、村外の各田んぼに農業用水を供給していた。老朽化により、平成10年頃から、池の桁から下の田んぼに漏水が発生してきた。ユンボ等による一時修繕を実施したが、漏水は少しづつ多くなり、防災上の危険が発生した。そこで、水口町農村整備課に平成12・13年度に要望を行った。平成14年に水口町によるボーリング調査。概略設計を実施。国に対して補助申請がされた。
 工事は県営事業として平成15年基本設計。平成16、17年にかけてため池の改修が実施された。総事業費81,478,000円。堤体工事90m。消波ブロック工、洪水吐工、環境整備が実施された。

溜池 碑
北山新池 池の碑の字句。
近江の国甲賀郡伴谷村北山池、廣 堤高十八尺余
工費 二千五拾四円、内千六百四拾余円、字、前田負担金、四百拾四円、北山、城下、負担金、起工、明治参拾四年九月、竣工、明治四拾年四月、灌漑稲田、十町八反九畝余歩、在来池浅水○蒙早害○○○困田主協議浅○興奮積労投此位置為○、明治四十年○朱四月建之灌漑、地主中江添忠○書。

碑池 ○(裏)
世話方、銘 12名、設計者 吉田 富吉(富夫)曽祖父。石工 山崎徳三郎(酒人)他、下山北山(通称芳ケ谷)より下山の林田四郎兵衛氏の金助谷の田地に灌漑用水の導水トンネルの設計も、富吉氏がされた。

伴中山工業団地

 昭和40年代はじめに、伴中山と北脇境に久金属工業㈱が誘致されることになったのが工業団地の始まりであった。それ以降、次々と矢継ぎ早に工場誘致の話があり、その時から今まで約40年間にわたって工業団地が形成されることとなった。
 その要因は、伴中山の位置が
①国道1号線に近く、京阪神と中京の経済圏の中間で交通の要処である。
②山といっても丘陵地で地価も安価である。
③地形の凹凸を均すだけで工事費が安くつく。
 などのことが考えられる。また、何よりも地権者のご協力があったからこそ水口町から甲賀市へと発展してきた礎が伴中山地域の工業団地にあることを決して忘れてはいけない。

名称工事期間工事会社名(公団等)面積(内伴中山属地面積)誘致企業名(数)備考
久金属工業㈱昭和44年4月創業久金属工業㈱
水口住宅工業団地(笹が丘)完成昭和49年滋賀県土地開発公社総面積:70.5ha
用地面積:63.6ha
㈱日立建機ティエラ(旧東洋社)・日本発条㈱・コニシ㈱・建研㈱・シェリングプラウ㈱ 他6社…計12社伴中山面積割合:73%
近江水口第一テクノパーク(さつきが丘工業団地)昭和60年1月~平成元年住宅都市整備公団総面積:79.6h
用地面積:66.2ha
伴中山の面積:32.5ha
トステム久居㈱・TOTO㈱・大和リース㈱ 他17社…計20社伴中山面積割合:41%
近江水口第二テクノパーク(ひのきが丘工業団地)平成7年~平成18年独立行政法人都市再生機構総面積:90.9ha
用地面積:68.3ha
伴中山の面積:50.9ha
住友電工プリントサーキット㈱:日新イオン機器㈱:阪和スチールサービス㈱ 他…16社計19社伴中山面積割合:56%

現在の伴中山地域図

現在の伴中山地域図
西暦天皇時代年号主要事項出典
(縄文時代)
(伝承)伊邪那岐大神「故其伊邪那岐大神者坐淡海之多賀也」天神七代にして多賀大社由緒古事記
(弥生時代)
(古墳時代)
316垂仁垂仁天皇4年(伝承)倭姫命 神鏡を奉じて日雲宮(五十鈴神社か)に斎するという日本書紀
337垂仁垂仁天皇25年(伝承)大水口宿禰、水口神社祭神で穂積臣の祖 淡海川枯姫の縁により当地開拓の神日本書紀
(大和時代)
552欽明欽明天皇7年12月佛教伝来:538年佛教公伝百済聖明王伝像を伝える上宮緊続法王帝説
584敏達敏達天皇13年(伝承)
甲賀村主:阿智王十七県の民を率いて帰化し、近江等5国に分置し郡司を務む
鹿深臣:甲賀臣、甲可臣乙磨(正倉院文書)
甲賀公是茂(天正10年追捕使に任じられた帰化人)甲賀郡司を務む
山直郷:(伴谷、岩根、柏木、大野) 挟々城山君一族山直氏が統括した
坂上系譜
敏達紀
朝野群載
近江与地志略
(奈良時代前期)
667天智白鳳6年3月志賀の都(大津の宮)遷都日本書紀
671天智白鳳10年漏刻により鐘鼓を打ち時刻報知日本書紀
罐子塚古墳(下山字引坊)甲可臣一族の墓噴か水口町史
672弘文
天武
天武天皇元年壬申の乱:大海人皇子東国から伊賀積植(拓植)の山口で鹿深(甲賀)より越えて来た高市皇子と合し、大山を越えて伊勢の鈴鹿に行く記事あり日本書紀
(奈良時代後期)
782桓武延暦元年思ひ川:桓武締名付く「近江がた岩根の東への思ひ川、川上もなし、川下もなし」「近江なる人と松尾の思ひ川、川上もなし、川下もなし」甲賀の歳月
783桓武延暦2年8月僧慶俊 天狗堂(天台宗)地蔵堂(地蔵菩薩)を勧請(春日神社)寺院明細帳
788桓武延暦7年僧最澄 比叡山に延暦寺創立日本史年表
(平安時代後期)
851文徳仁寿元年山村神社内の観世音菩薩創設 西観法師作天神社由緒書
901醍醐延喜元年菅原道真、大宰府に左遷さる日本史年表
四男敦茂、美濃部郷に流寓、郷長兵左衛門為親の女婿となり子菅三郎直茂は美濃部郷の祖となる水口町志
948村上天暦2年11月十善神社(大山昨命)勧請(日吉神社)水口町志
949村上天暦3年山村神社内の社殿造営 是兼(直茂公の子息)作天神社由緒書
957村上天徳元年伴宿弥資守早俊(伴氏の祖)甲賀郡長となる ~ 959甲賀郡志
970円融天禄元年6月祇園午頭天王(素盛鳴命)勧請(春日神社)甲賀郡志
976円融貞元元年僧良源 中山寺、白山寺(木井寺)草創水口町志
三十八処大明神(国狭槌命瓊々杵尊)中山寺守護社として勧請(三十八社)天神社由緒書
神珠山大明寺智禅院(天台宗地蔵菩薩)僧良源の開基水口町志
重要文化財(本尊地蔵菩薩半跏像 1.35m 寄木造鎌倉時代作桧材)水口町志
1018後一条寛仁2年4月両山王(瓊々杵命、大己貴命)勧請(八田神社)水口町志
1045後冷泉寛徳2年柏木荘に入る(北脇、宇田、植、酒人、泉、名坂、林口、松尾、中山、下山、春日、山、八田、上村)甲賀の歳月
1072後三条延久4年4月東西山王(天児屋根命、玉依姫命)を勧請(春日神社)水口町志
1114鳥羽永久2年7月円城寺領(刑部丞源義光は山村柏木の2郷を円城寺金光院に仏鈎灯油所として寄進する)甲賀郡志
駒の口:野洲川北部の栢木山村牧と八馬を主とする放牧地で朝廷に献馬した水口町志
1164二条長寛2年神宮領となる神宮雑誌
栢木御厨新立せらる。五郷とは 1.山村三郷(上山郷山) 2.中山郷(中山、春日) 3.下山郷 (下山) 4.栢木郷(宇田、名坂、松尾、北輪) 5.酒人郷(酒、泉、植)
峯道:山中文書中の心光譲状に弁房道俊への譲件記載あり
水口町志
(鎌倉時代)
1216順徳建保4年山中俊道 子俊信に山中村地頭職、上山村友行名同下司職を譲る水口町志
1309花園延慶2年11月伴太郎左衛門景秀(播磨守とも)下山城を築き、畑村、中山村、下山村を領す この時代以降中山村を伴中山村と改称、伴の郷、又、伴の谷と云う甲賀郡志
1317花園文保元年8月八幡宮(応神天皇)勧請(春日神社)水口町志
(南北朝時代)
1334後醍醐建武元年8月上山村観音寺別当職敷地山林荒野を山中斉公道俊宛に安堵する水口町志
1335後醍醐建武2年7月座禅坊名老町惣荘検断職料として橘六頼俊に安堵する水口町志
1336後醍醐建武3年橘道俊 山村の名主職となる日本古城 友の会
1337後醍醐建武4年清福寺に宝篋印塔建立(建武4年の刻印あり)清福寺
伴大隈守資景 足利尊氏に属し、畑村城(伴中山)を築く日本古城 友の会
1357後村上延文2年橘道俊 上山村地頭職、領家職を佐々木六角氏頼より預る水口町志
1374長慶応安7年12月三十八社大明神本社中興再建の棟札(大工林口兵衛丸末守とあり)三十八社 由緒書
(室町時代)
1416稱光応永23年能徳山九品寺(浄土宗阿弥陀如来)伴氏の菩提寺として僧隆尭法印の弟子尭誉隥真上人創建甲賀郡志
1431後花園永享3年11月八田村を岩根郷と定む甲賀郡志
1444後花園文安元年頃清治房 良徳寺の前身草庵を結ぶ水口町志
1480後土御門文明10年頃東照山西養寺(浄土宗阿弥陀如来)を第一世尭誉隆阿開基水口町志
1487後土御門長享元年10月長享の乱起る 甲賀五十三家 戦功あり甲賀郡志
・八田勘助(左近介とも云う)京都真如寺正賑院の下司として居住六角高頼の旗下、八田館に住す
・上山新八郎、上山城に在り六角高頼に属し、正徳2年迄居住
・中山民部丞、伴氏の一族で長享2~3年に中山城を築き、六角高頼に属す
・中山民部丞、伴氏の一族で長享2~3年に中山城を築き、六角高頼に属す
・伴 左京介資頼、下山城に在り高頼に属す。二十一士にたたえられる
日本古城 友の会
1521後柏原大永元年旭照山東光寺(浄土宗、阿弥陀如来)僧 隆阿開基水口町志
1522後柏原大永2年清治山良徳寺(浄土宗阿弥陀如来)僧隆真開基水口町志
1529後奈良亨禄2年9月仏法山溪蓮寺(浄土宗阿弥陀如来)僧応誉創立水口町志
1531後奈良亨禄4年3月上山城(築城持の瓦に年号銘入あり)上山新八郎の子、上山徳三郎二より改築江源武鑑
1532後奈良天文元年津山城(下山字細佐にあり) 津山左京資玉の居城かふる里下山
1540後奈良天文9年上山城主 上山徳三郎の子上山伝八郎宗秀が田中伝八郎宗秀と改名した。近江の15勇士の一人で、伊庭城において演武開催された13代将軍足利義時より太刀一振の褒美と従四位を賜る江源武鑑
1545後奈良天文14年杉本山法念寺(真宗、阿弥陀如来)相休(杉本左京)小庵を建てる水口町志
1556後奈良弘治2年山村神社の由緒書 大原右近助永栄作天神社由緒書
1566正親町永禄9年伴、山中、美濃部、三方起床請文を作り、地下の治安維持をはかる水口町志
1570正親町元亀元年白山寺(木中寺)信長の兵火に罹災滅する(鎮守白山権現社を東谷の高地に遷し、寛永の頃廃滅 字白山の水田中に大梵鐘埋没の伝承あり)
上山城信長に攻められ落城する
伴太郎左衛門資家織田信長に仕える
甲賀郡志
(桃山時代)
1573正親町天正元年誓演山西光寺(浄土宗阿弥陀如来)当智院殿本誉誓演大姉開基水口町志
1574正親町天正2年仏法山溪蓮寺(浄土宗阿弥陀如来)僧僧誉中興寺院明細帳
1582正親町天正10年6月本能寺の変にて伴資家信長と共に戦死し、下山城廃滅する日本古城友の会
1585正親町天正13年中村一氏、大岡山に岡山城を築き城主となる この頃現在の水口市街の原型ほぼできる水口町志
1600後陽成慶長5年関ヶ原の戦後岡山落城(城主長束正家の室、栄子姫思ひ川沿いに北脇へ逃る)
伴上野守資光 朝国、八田を領す
甲賀郡志
1602後陽成慶長7年天台宗 智禅院 領道寺教仙坊再興す甲賀郡志
1610後陽成慶長15年城之山善勝寺(浄土宗阿弥陀如来)第一世進誉開基水口町志
(江戸時代前期)
1617後水尾元和3年国領半兵衛八田村を領す(石高335石6斗2升とある)甲賀郡志
1624後水尾寛永元年上山村を分けて上村、下村とする甲賀郡志
1632後水尾寛永9年小堀遠州 水口碧水城を築く水口町志
1655後西明暦元年八田焼はじまる(宮治伊兵衛京で窯業を習い陶器を焼く。武藤佐兵衛、宮治法兵衛と共に高松山の土を使う。最盛期23戸あり。)甲賀郡志
1669霊元寛文9年人別改帳作成さる水口町志
1671霊元寛文11年安如山西栄寺(浄土宗阿弥陀如来)僧 鏡誉存長大徳が再興する
・重要文化財
 阿弥陀如来 恵心僧都作 藤原様式 一木造 0.53m
 薬師如来坐像 鎌倉時代 桧寄木造 0.52m
水口町志
1675霊元延宝3年上山郷上村を分けて堂村とする甲賀郡志
1678霊元延宝6年宮治孫兵衛八田代官となる
1682霊元天和2年加藤内藏助明友石見国吉永より水口へ転封 水口藩政始まる水口町志
(江戸時代中期)
1683霊元天和3年瑞竜山玉台寺(黄檗宗万福寺派十一面観世音菩薩)僧天海開山 加藤明友の家臣 籔、菅、足立、毛利、金子の諸氏檀家とする甲賀郡志
天和3年5月三十八社本殿再造(賢順法印代、大工富田清兵衛宗次とあり)三十八社由緒書
1685霊元貞享2年松尾芭蕉 水口に来て「命二つ 中に生けたる 桜かな」を吟ず水口町志
1686霊元貞享3年能徳山九品寺(浄土宗阿弥陀如来)僧見達再建する水口町志
1687東山貞享4年誓演山西光寺(浄土宗阿弥陀如来)再興(菅原氏美濃部彦左衛門か)水口町志
1692東山元禄5年頃瑞岩寺(黄檗宗十一面観世音菩薩)大眉禅師 中興す水口町志
1694東山元禄7年水口宿 助郷の制定める(東伝馬36疋)水口町志
1709~東山寛永年間山村天神(天押穗耳命、菅原道真)のト石(郡志によれば祭神は少彦名命、菅原道真)甲賀の歳月
1712中御門正徳2年上山城主 山村信濃守良道から加藤和泉守嘉矩の移封により廃城となる甲賀郡志
1713中御門正徳3年良徳寺再興さる水口町志
1716中御門享保元年国王山 清福寺(浄土宗 阿弥陀如来)再興水口町志
1726中御門享保11年旭照山東光寺(浄土宗 阿弥陀如来)僧 恵立再建水口町志
1728中御門享保13年春岬山慈光寺(浄土宗 阿弥陀如来)僧 良哲再建甲賀郡志
1733中御門享保18年水口祭に曳山出る水口町志
1749桃園寛延2年5月寺小屋創業
・八田村:西栄寺 男10人 読書 ~明治7年迄
・春日村:西田忠兵衛 男18人、女2人 読書と算術 ~明治6年迄
・下山村:九品寺 男16人、女3人 読書と習字 天保2年~明治7年迄
・伴中山村:梅田金兵衛 男16人、女4人 読書 ~明治7年迄
・山村:善勝寺 男27人、女3人 読書 ~明治7年迄
甲賀の歳月
1752桃園宝暦2年9月法念寺(真宗)に本堂建立の棟札あり水口町志
1758桃園宝暦8年八田村と岩根、下田両村との山林争解決される
僧 円随…(白揚軒蓮車)良徳寺に住し、俳諧、俳画、医者に通ず天保5年11月没 77歳
「赤鯛や長百姓のくすり喰」「山路きてうれしや秋の雨やどり」
水口町志
1781~光格天明年間山村神社の由緒書持出 別當寺僧水口町志
(江戸時代後期)
1814光格文化10年梅田金兵衛…伴中山に生まれ庄屋となり、家塾を開き子弟を教え、後詩歌、俳道に励む 明治22年6月11日76才にて没す。平尾山に領徳碑建つ水口町志
1824仁孝文政7年城之山善勝寺(浄土宗阿弥陀如来)再建寺院明細帳
1842仁孝天保13年10月甲賀一揆起る 天保義民蜂起し横田川に集り野洲郡に入る水口町志
1843仁孝天保14年伴中山村:百姓 伝三郎 百姓 清八 中追放の罪状を受ける
下山村:百姓 伊藏 他52人 過料銭八貫文
下山村:百姓 甚六 百姓源右エ門 過料銭三貫文
甲賀の歳月
1856孝明安政3年宮治朔之進…八田代官となり善政をしく。明治7年8月15日82才にて没す 頌徳碑 西栄寺境内に建立水口町志
1866孝明慶応2年水口城主 加藤明実 討幕戦争に京都勤王方として東征の先鋒をつとめる水口町志
1867孝明慶応3年大政奉還 明治維新となる水口町志
(近代)
1868明治明治元年神仏分離令出る(廃仏毀釈運動起る) 王政復古布告日本史年表
明治天皇東幸 水口にて小休あり水口町志
日吉神社 八田神社 共に改称水口町志
1869明治明治2年版籍(水口藩2万5千石)奉還 加藤明実 水口藩知事となる水口町志
1870明治明治3年平民に苗字を認める水口町志
1871明治明治4年廃藩置県により、水口県と称し、同年11月大津県に属する水口町志
1872明治明治5年滋賀県に所属する 8月に太政官布告により学制頒布 太陽歴採用水口町志
1873明治明治6年徴兵令公布 地租改正 区長 戸長をおく水口町志
1873明治明治6年余力学校:伴中山村(智禅院)、下山村
敬心学校:春日村(渓蓮寺)、八田村(西栄寺)
学校沿革誌
1874明治明治7年7月行文学校:山村(山村神社)、松尾村甲賀郡志
明治7年10月畑村を春日村と改称
1875明治明治8年7月上村、堂村、下村を山村と改称
明治8年9月藤木神社、日枝神社、八坂神社を八幡宮境内へ合祀し春日神社と改称する
1879明治明治12年7月郡制を復活し、甲賀郡役所を開庁さる
1880明治明治13年7月余力学校より分離して下山学校開かれる
当時の人口と戸数
八田:62戸 310人 春日:98戸 503人 下山:73戸 353人 伴中山:119戸 641人 山:119戸 568人 計:471戸 2,375人
滋賀県特産誌
1886明治明治19年4月春日尋常小学校・・・(小学校令で尋常科4年、高等科4年を定める) 通学区域は八田、春日、下山、伴中山、山村
明治19年9月高等科甲賀小学校の創立(旧水口公民館)水口町外97ヶ村組合立甲賀学校と称した水口町志
1888明治明治21年4月伴谿尋常小学校と改称 「君が代」国歌に制定学校沿革誌
1889明治明治22年大日本帝國憲法発布日本史年表
明治22年4月市町村制施行により伴谷村に改称(以前は春日村他5ヶ村で下田村を含んでいたが、この時、八田・春日・下山・伴中山・山で一村となる) 初代村長 西田忠兵衛 氏水口町志
1890明治明治23年10月教育勅語発布日本史年表
1892明治明治25年伴谷村夜学会
上山尋常小学校、中山尋常小学校、春日尋常小学校に改称さる
学校沿革誌
1893明治明治26年8月伴谷青年会発足 15才~30才迄義務制水口町志
1894明治明治27年日清戦争開始される水口町志
1898明治明治31年4月初代郡会議員に吉田冨吉氏 (その後の郡会議員に西田忠平、宮路茂兵衛、菊田庄兵衛、中尾象一、中島馬吉、西田忠兵衛各氏)
1904明治明治37年2月伴谷尋常小学校新築さる 大字伴中山字彼岸田2229番地2268番地
敷地面積:4反3畝10歩 買入金額:¥1,285円39銭
校舎建築:明治35年4月起工 明治37年2月16日竣工式 建坪数:241坪 工費計:金¥9,557円47銭2厘也
学校沿革誌
1904明治明治37年日露戦争起る水口町志
1905明治明治38年伴谷村婦人教育会創立さる水口町志
1906明治明治39年4月伴谷裁縫学校 修業年限3ヵ年開校さる
当時の職別戸数と人口
農家:451戸 工業:8戸 商業:14戸 雑常:7戸 教員:3戸 僧侶10戸 日雇:1戸 計494戸 人口2,889人
滋賀県物産誌
1910明治明治43年2月優良団体(模範村)として内務省より表彰を受ける甲賀郡志
1911明治明治44年村役場、農業組合事務所2ヶ所に電話開通さるふる里下山
明治44年9月中井清吉氏 県会議員に当選(明治44年9月~大正4年9月迄)水口町志
1913大正大正2年伴谷尋常高等小学校と改称水口町志
各家庭へ電灯つくふる里下山
1914大正大正3年第一次世界大戦始まる日本史年表
1919大正大正8年滋賀県立水口中学校開講(水口農林学校に併設)水口町志
1924大正大正13年滋賀県水口高等女学校と改称(旧称水口町立水口実科高等女学校)水口町志
1928昭和昭和3年昭和天皇即位の大札を行なう日本史年表
普選による第一回総選挙実施さる水口町志
1931昭和昭和6年満州事変起る日本史年表
1935昭和昭和10年4月青年学校令施行に基づき伴谷青年学校開校 S14年義務制となる伴谷教育百年の歩み
1937昭和昭和12年7月日華事変起る日本史年表
1940昭和昭和15年皇紀二千六百年記念事業 果樹園造成伴谷教育百年の歩み
1941昭和昭和16年4月伴谷国民学校と改称伴谷教育百年の歩み
昭和16年12月太平洋戦争開始日本史年表
1944昭和昭和19年集団疎開児童を受け入れ、大阪津守区民学校児童73名共学する
農耕兵約60名駐屯
伴谷教育百年の歩み
1945昭和昭和20年8月ポッダム宣言受諾 終戦(敗戦)となる日本史年表
1946昭和昭和21年農地改革実施される 日本国憲法発布日本史年表
1947昭和昭和22年学校教育法による六・三制の誕生 教育基本法日本史年表
伴谷小学校と改称 修業年限6年
水口中学校と改称 修業年限3年
伴谷教育百年の歩み
1948昭和昭和23年農業協同組合設置される水口町志
1951昭和昭和26年昭和天皇滋賀県下巡覧水口中学校校庭に行幸水口町志
1952昭和昭和27年思ひ川改修工事下山字柳瀬地区より始まる
1955昭和昭和30年町村合併促進法により解消 新生水口町誕生
(伴谷村、柏木村、水口町、貴生川町、4ヶ町村合併による)
水口町志
1960昭和昭和35年上水道完成 各家庭に送水さる水口町志
1967昭和昭和42年12月伴谷小学校校舎火災にあう伴谷教育百年の歩み
1979昭和昭和54年思ひ川改修工事竣工
1983昭和昭和58年山村神社の由緒書発見 三十八社より天神社由緒書
1994平成平成6年山村神社の由緒書の覆刻奉納 山村神社天神社由緒書
2003平成平成15年伴谷東小学校新設水口町志

編集後記と編纂委員

編纂顧問:中森 作次 寺村 泰治
編纂委員:平田 保雄 藤岡 義昭 平田 重夫 平田 利隆 杉田 豊久 杉田 進 富田 貞三 富田 幸児 栢木 喜代司 寺村 寿美雄 梅田 金文
(区委員)区長:藤岡 栄一郎 区長代理:今村 弘 改良組合長:寺村 研一 改良組合長代理:富田 博明 公民館主事 :藤岡 忠史

編纂後記
 実質的に1年に満たない非常に短い期間ではありましたが、「伴中山区の歴史」の編纂に携わったことで、今まで当たり前のように便利に利用している施設や普段何気なく見ている風景が先人の努力と5つの垣内の協力により作られ、守れてきたことを再認識させてくれました。この小冊子を手にした子ども達が、祖先の偉業に感謝するとともに、ひとりひとりの力は小さくても、区民全員が協力すれば、非常に大きな事も可能にできることに少しでも気付けていただけば幸いです。
 後になりましたが編纂にあたり、資料を提供していただきました多くの皆様を始め、積極的に編纂に取り組んでいただきました委員の皆様方に心よりお礼を申し上げます。

伴中山区区長