伴谷の由来及び各字の由来
伴谷は、大字八田、春日、下山、伴中山、山の五大字の総称で明治5年(1872)区制施行の時甲賀郡第2区に入り同18年(1885)に連合戸長役場を春日に定め、同22年(1889)4月町村制実施にあたり伴谷村となり、村役場が伴中山に設置されました。明治35年(1902)村是を定め自治の実績を上げてきましたが、明治43年(1910)2月25日内務省の推賞を受け模範村と称せられました。
古代より伴谷は、山直氏が支配し、本拠地でありました。永久2年(1114)8月源義光が支配し金光院領とし、永く燈明料を納めさせていました。その後園城寺内金光院に転じ、長寛2年(1164)以後は柏木荘の御厨司の支配下に入っています。
各字の由来
①大字八田 住家75戸
八田は、古く八田勘助の所領で、後に岩根郷の一部で京都眞如寺中正派院所領、天正13年 (1585)水口岡山城主中村一氏、増田長盛、長束正家と次々代わり、伴上野介資光の所領となり、元和3年(1617)より國領半兵衛がこれに代わり正太郎に到り明治維新になりました。
八田地区の小字 20小字
勝谷 水口 門田 上出 中出 込田 中尾 芳谷 西畑 井ノ口 寺硲 勝負谷 灰坂 桐山 薊谷 小桐山 イフラ谷 中ノ町 向山 桃木谷
②大字春日 住家109戸
春日は畑村といっていましたが、明治7年(1874)に現在の春日に改称しました。永保3年(1083)以来伴氏の所領で、建武4年(1337)伴大隅守資景が伴城山に畑村城を築きました。慶長5年(1600)以後は伴上野介資光の領地となり畑村と八田村を所領していました。慶長7年(1602)羽柴若狭少将勝俊、慶長10年(1605)鳥居彦左衛門、慶長13年(1608)松平隠岐守、石川主膳頭、内藤紀伊守に代々交代しました。寛文3年(1663)以来幕府代官の小堀仁右衛門猪飼治郎兵衛、野田源左衛門中根弥治助等の代官が管治しました。天和2年(1682)加藤明友が石見より水口に転封となり水口藩が立藩され 、以後水口藩の領地となりました。藩主は一時期鳥居氏に代わっていましたが正徳2年 (1712)それまでの藩主鳥居忠英に替わって下野壬生より、加藤和泉守嘉矩が水口藩主として転封になり再び、加藤氏の領地となりました。
明治維新後、明治4年(1871)の廃藩置県で水口県に属することになり、大津県所属を経てその翌明治5年(1872)滋賀県所属となりました。この時滋賀県は12郡に分けられましたが、甲賀郡はさらに10区に分けられ、畑村(明治7年(1874)春日村と改称)は八田、下山、伴中山、上、下、堂(明治8年(1875)合併して山村となる)の伴谷地区の各村と下田村とともに甲賀郡第2区に入りました。各村の戸籍事務・行政は民選の戸長が担当しました。明治12年(1879)区制は廃止されましたが明治18年(1885)には、旧甲賀郡第2区の6ヵ村を所管する連合戸長役場が、区域の中心地である春日村に設置されました。明治22年(1889) 4月1日の市町村制施行により、春日連合戸長役場管内から下田村が分離独立し、八田、春日、下山、伴中山、山の各村は合併し、伴谷村が誕生、初代村長には春日の西田忠兵衛さんが選ばれ、村役場は伴中山に設置されました。
春日地区の小字 52小字
猪ヶ谷 外輪 阪ノ橋 新打ヶ谷 山女谷 大砂溜 田首 兎谷 川窪 安養坊 平田 杉谷 泓 芳谷 後谷 振り合 内垣内 名及出 岨出 円山 大谷 囲碁木 峯道 大平 田中出 平林 寺堤 野田 清水 坊谷 竹ノ下 四ッ辻 稲葉 松ヶ崎 地蔵前 瀕谷 宮ヶ谷 四方谷 西出 谷口 伴城 安垣 杭原 西裏 谷田 養津喰 向出 藤谷 阪ノ浦 灰坂 高松 薑谷
③大字下山 住家75戸
下山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年(1331)注進目録に出る下山郷です。延長年間伴太郎左衛門氏大原郷より移り治所を下山に置き所領した。慶長5年(1600)長束正家亡後伴上野介資光の所領となり、慶長7年(1602)松平隠岐守、元和9年(1623)年堀田加賀守、寛永4年(1627)二分して徳川家の旗本美濃部文左衛門と水口城代小堀遠江守の管轄となり、山口但馬守、野田三郎左衛門等の城代と代官を経て寛文元年(1661)葦蒲観音寺下に入り、寛文3年(1663)に小堀、前守美濃部氏、石原清左衛門の支配下となり、宝暦3年(1753)小笠原能守、文化10年(1813)井上河内守、天保7年(1836)多羅尾久左衛門、天保11年(1840)水野越前守、再度多羅尾氏の支配下となり、弘化4年(1847)松平周防守の支配下となり明治維新となりました。
下山地区の小字 13小字
迎山 柳瀬 市場 引坊 二反田 大沢 広野 細ヶ谷 牛飼塚 細佐 大谷 下ノ前 前田
④大字伴中山 住家110戸
伴中山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年(1331)注進目録に出る中山郷です。中山民部丞の所領後柏木御厨司職山中氏の管治下となった。応仁以来再度伴氏支配下となり天正13年(1585)中村一氏、増田長盛、長束正家と代わり伴上野介資光氏、伴勘左衛門氏の所領となり、寛永11年(1634)水口城代小堀遠江守や代官平岡四郎左衛門、鳥居伊賀守となり、正徳2年(1712)加藤和泉守より世襲することとなる。明和8年(1771)旗本美濃部伊織の支配下、天明以後代官は岩出伊右衛門、多羅尾四郎右衛門、天保4年(1883)稲葉長門守の堤封に入り子孫世襲することとなり、明治維新となりました。
伴中山地区の小字 20小字
笹尾 正保 座禅坊 平尾 中切 百姓村 小谷 六反田 馳登 峯道 杭原 彼岸田 岩谷 西浦 村外 神田 城下 北山 椎ノ木谷 芳ヶ谷
⑤大字山 住家120余戸
山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年(1331)注進目録に出る上山郷です。上山新八郎、上三郎、田中伝八郎宗秀の所領後柏木御厨司職山中氏の管治下で天正13年(1585)中村一氏、増田長盛、長束正家と代わり、慶長5年(1600)伴上野介資光氏、慶長7年(1602)旗本林伝右衛門、慶長13年(1608)松平隠岐守、元和4年(1618) 内藤紀伊守、寛永4年(1627)代官土井大炊頭、延宝3年(1675) 代官吉川半兵衛、天和2年(1682)加藤内蔵助所領、元禄8年(1695)鳥居伊賀守所領、正徳2年 (1712) 再度加藤氏の所領となり世襲後明治維新となる。また、菅原道真公太宰府に配島され、その子淳茂郷京より水口の美濃部に移り住み堂村にある観音堂内の十一面観世音菩薩に深く帰依し、父の勅勘の解かれる事を祈ったが、道真公異国で亡くなるや悲嘆にくれ水口の地の檀を築き、父と自身の画像を掲げ又一尺余の円石を尊前に据え置き日夜礼拝を怠らなかった。この心が通じ後に公の復検と自身も勅勘を解かれた。菅原家は、後に美濃部氏となった。
山地区の小字 34小字
廻田 高ソネ 小松尾 吉平 白山 畦八丁 菖蒲谷 東谷 上ノ山 松葉沢 柳谷 千代坊 北小野 栂畑 北谷 峯道 下代 西谷 西村 前ノ谷 菅谷 大平 田引 竹ノ鼻 岩谷 百々谷 向山 南前 長谷 南谷 勘定ヶ谷 向出 栗ノ木谷 千丁
地形・地質・山・河川・道路・交通
① 地形地質
伴谷地区は日野川と野洲川にはさまれた水口丘陵の西部に位置し、樹枝状の開析谷が発達しています。地質は、丘陵地には新第三紀鮮新世の古琵琶古層群蒲生累層が分布していますが春日、八田、下山境界付近には年代末詳(古琵琶湖層群よりは古いと考えられる)のレキ(礫)層が分布しています。また開析谷の谷底には第四紀沖積世の砂、泥が堆積しており、水田として利用されています。
② 山
赤禿山は、山と蒲生町鈴の境に存在
高松山は、八田、春日、下山と下田の境に存在
高塚山は、八田と蒲生町の境に存在
薊谷山は、八田と蒲生町の境に存在
③ 河川
野洲川の支流なる思川と思川の支流の坊谷川で、思川の河川改修を昭和28年(1953)度より、昭和58年(1983)度までの約30年間にわたり実施し、思川の源流は松尾と日野町別所境より始まり、坊谷川は大字春日字安養坊池と田首池より始まる。日野川の支流なる祖父川は春日と伴中山の境より始まる。
④ 道路
主な道路
県道春日竜王線 県道水口竜王線 県道泉日野線 県道増田水口線 県道山松尾線 県道山名坂線
主な橋
城之橋 城ヶ峰橋 長徳橋 馬場橋 泉高橋
⑤ 交通
昭和7年(1932)時の国鉄自動車課長の菅 健次郎氏が水口町出身ということもあり、国鉄バスが水口と三雲間を運行し、後に昭和24年(1949)7月滋賀交通も運行しました。その後、水口工業団地、湖南工業団地が近くにある為、自家用車と工場へ出入りする貨物自動車も多く交通量頻繁となった。
伴谷の城
畑村城
大字春日字伴城 西春日の南東に位置する山上。土盛高い所は約4m内面積800㎡ 城主は、伴大隅守資景 伴上野介資光等
津山城
大字下山字細佐 臼井満夫氏宅より約200mの所で裏の山 内面積 1,400㎡ 城主は、伴勘左衛門唯利 伴半兵衛直次
下山城
大字下山字市場 城主は、伴太郎左衛門景秀

小川芳生氏宅の南山にあり土盛高3m内面積1,200㎡
城屋敷
大字下山字市場 伴定之氏の屋敷 通称ぽんぽん屋敷といい下山では、一番古い屋敷です
迎山城
大字下山字迎山 津田進氏作業場東30mの所の南山道路より約100mの高所にあり 土盛り高平均3m内面積600㎡東の丸は傍田周造氏の東にあり城跡または物見台 城主は、伴伝佐衛門 伴又左衛門
上山城
大字山字上ノ山 東の丸は田中勲氏宅の東

山土盛約4m内面積1600㎡ 又西の丸は大平治朗氏の西 山あり城跡又は物見台 城主は、上山新八郎 上山徳三郎 田中伝八郎宗秀
田引城
大字山字田引 前川重男氏宅の東山 内面積800㎡ 西の丸は、青山一郎氏宅の西山で北には土盛高3メートル内面積1,200㎡
城主 山村信濃守
伴中山城
大字伴中山字城下 富田与平氏宅の北山土盛高3m 内面積2,000㎡ 城主 伴播磨守 伴左京亮
西出城
大字伴中山字神田 木林栄一氏宅の東北の山土盛高3m 内面積700㎡ 現在は故平田久一氏の茶畑下の土地の名は指南堂と呼ぶ 城主 八田勘助 八田左近介
百姓村城
大字伴中山字百姓村 平田晃氏宅地 故富田英樹氏宅地と畑 内面積1,600㎡ 城主 徳川の旗本 美濃部八兵衛
甲賀武士と伴谷
甲賀五十三家(こうかごじゅうさんけ)は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家
山中十郎 鳥居兵内 頓宮四方介 嶬峨越前守 杉山八郎 上山新八 宮島掃部介 夏見大學 岩室大学介 倉治右近介 多羅尾四郎兵衞 中山民部丞 平子主殿介 三雲新藏人 高山源太左衞門 葛城丹後守 大原源三郎 伴左京介 杉谷與藤次 和田伊賀守 芥川左京亮 土山鹿之助 牧村右馬介 宇田藤内 望月出雲守 池田庄右衞門 上田三河守 針和泉守 服部藤太夫 長野刑部丞 美濃部源吾 大河原源太 多喜勘八郎 鵜飼源八郎 大久保源内 野田五郎 小川孫十郎 佐治河内守 内貴伊賀守 山上藤七郎 上野主膳正 大野宮内少輔 八田勘助 饗庭河内守 岩根長門守 神保兵内 高野備後守 黒川文内 青木筑後守 隠岐右近太夫 高峯藤人 小泉外記 新庄越後守
甲賀五十三家の内4家は、伴谷の城主で
上山新八郎は、大字山字上ノ山の上山城主で現在の山の字名の由来となった。
伴播磨守は、大字伴中山字城下の伴中山城主で現在の下山で、伴谷地域名の由来となった。
八田勘助は、大字八田字中尾の八田城主で現在の八田の字名の由来となった。


明治7年(1874)以前は、子どもの教育は各区とも、寺院や志のある地域の有力者による寺小屋での読み書き算盤の教授が主なものでした。
明治5年(1872)、国の方針として国民皆学をめざす「学制」が制定されたのを受けて、明治7年(1874)小学校として春日に敬心学校、伴中山に余力学校、山に行文校ができ、明治13年(1880)に余力学校から下山学校が分離開校しました。
その後明治19年(1886)、同年制定の小学校令(6才入学・4年制義務教育)による春日尋常小学校(通学区域は八田、春日、下山、伴中山、山の旧伴谷村全区と下田)が春日字谷口に伴中山にはその支校が山には分校が開校しました。当時、4年制の高等科進学希望者は水口に出来た高等科甲賀小学校に通いました。
明治22年(1889)下田が分村してからは、小学校通学の便利性の観点から現在地である伴中山字彼、岸田に明治35年(1902)起工同37年竣工で伴谷尋常小学校が新築開校しました。義務教育は明治40年(1907)6年制となり、大正2年(1913)には2年制の高等科を設置し伴谷尋常高等小学校と改称しました。
昭和3年(1928)には住民待望の講堂・家事室も竣工しました。昭和16年(1941)から戦中戦後しばらくの6年間、伴谷国民学校と名を変えていましたが、昭和22年(1947)の学制改革により同年6年制の伴谷小学校、3年制の水口中学校が新生発足しました。
昭和49年(1974)には伴谷小学校は創立100周年を祝いました。平成4年(1992)現在の新校舎が竣工、平成6年(1994)には伴谷幼稚園が開園しました。伴谷地区は県内でも人口増加が著しく、全国的な少子化現象のなかで児童の急増傾向が続き、平成15年(2003)伴谷小学校から伴谷東小学校が山字東谷地先に分離開校しました。




青年期教育に関しては、明治39年(1906)女子のための実業補習学校として修業年限3年の伴谷裁縫学校が開し、その後男子も加わり伴谷補習学校と改称、昭和10年(1935)には、青年学校令により伴谷青年学校となり、終戦後の昭和22年(1947)の学制改革まで、存続しました。
また、社会教育施設については、昭和27年(1952)6月24日に伴谷小学校内に伴谷村公民館が開館され、昭和51年(1976)1月30日現在地に公民館が竣工、移転し、伴谷地域の社会教育活動の拠点施設として生涯学習活動を行ない現在に至っています。甲賀郡志には「伴中山の人にして家世々農を業とし父祖より相継ぎて庄屋となり、里民悦服治績大に挙がれり。金兵衛常に邑に不学の徒多きを慨き、自ら家塾を開きて教授すること20余年、明治維新後学制発布せられて郷校起こるや年来の希望達せりとして塾を閉じ、誌歌俳を以って老を養い明治22年(1889)6月11日病んで死す、享年76才。資性篤実温厚頗る学を好み風教するを以って自任せりという」

伴谷の行政
昔、村には代官の下に庄屋という役員がいて、村の一切を統括していた。庄屋の選出方法は、その村の年寄り肝煎等の協議により推薦し候補者の所得、人物等調べ調書を大庄屋に申し出て、許可を得て、大庄屋は郡奉行所へ提出認定を受けた。庄屋の給料は年貢米で、年に米4石程度で、庄屋の任期は1年交代であった。
甲賀郡を10区に分け本村は第2区に属し、その第2区は岩根、朝国、下田、八田、畑、中山、下山、上村、下村、堂村、松尾の11村であった。


明治21年(1888)市町村制施行により八田、春日、下山、伴中山、山で一村の伴谷村となった。明治33年(1900)伴谷村役場ができ、村議会議員定数を12名と定め、選挙権は男子戸主であって25歳以上で納税資格により選挙権の無い者もあった。議員には一級議員、二級議員に分けられ納税資格によって選挙が行われました。村長、村議会議員の任期は、いずれも4年制で現在もこの制度は変わらない。その後、第2次世界大戦終了後の昭和21年(1946)婦人にも選挙権が認られ男女20歳以上の者には、その権利、義務のあることが憲法により保障されました。
延喜式内神社は格式の一つで、京都御所を守護する宮といわれ、水口では、北内貴の川田神社と水口神社で、伴中山の三十八社は、惣社と呼ばれていた。
宮司については、古代は天台宗の僧侶別当法眼等これを行っていました。初代は宿谷伊之助氏で山村神社に籍を置き他社を兼務され、次に岩根の吉田伊一氏が、これを行い、その後、伴谷村長を終った後の藤岡忠三郎氏となり約10年間の後、平田熊造氏が宮司として三十八社に籍を置き伴谷各社を兼務し各祭礼に参拝され昭和34年(1959)まで勤められ、その後元伴谷村長の宮路茂兵衛氏が昭和59年(1984)までの20数年間勤められ、その後、現在の柏木神社宮司の川島雅臣氏が兼務となった。
①八田神社 大字八田字上出鎮座
祭神:瓊々杵命 大巳貴命
社殿:一間社流造桧皮葺方四間南面
例祭日:5月1日

境内社:天照皇太神宮八幡神社 東照宮 愛宕神社 稲荷神社 籠明神
由緒:寛仁2年(1018)4月勘進し治安2年(1022)社殿を建立 慶応3年(1867)までは両山王社と称し、同4年(1868)社名を改め八田神社と称する。明治9年(1876)村社となり、氏子76戸 明治19年(1886)拝殿を建築する。
例祭日:5月1日
境内社:天照皇太神宮八幡神社 東照宮 愛宕神社 稲荷神社 籠明神
②春日神社 大字春日字芳谷鎮座
祭神:応神天皇 天児屋根命 玉依姫命 素戔鳴命
社殿:三間社流造桧皮葺
間口:十三尺 奥行:十二尺八寸


由緒:応神天皇は文保元年(1317)現地に勧請して八幡宮と称する天児屋根命 玉依姫命は延久4年(1072)勧請し天児屋根命を永亨4年(1432)宮が谷へ玉依姫命は天文23年(1554)田首に鎮座し、東西の山王社と称する。素戔鳴命は、天録元年(970)大字 春日天王前に鎮座し祇園は午頭天王社と称し明治5年(1872)社名を藤木神社又は八坂神社とも呼び、明治6年(1873)許可を得て現在地に移し、明治8年(1875)社名を改め春日神社と称し、明治9年(1876)村社境内社として愛宕神社、皇太神社、多度神社又本社の上の山に天狗堂、下には地蔵堂があり、内には薬師如来、大日如来、地蔵菩薩、聖観世音菩薩等が祀られています。
地蔵堂の大日如来坐像は、市重要文化財に指定されている。


③日吉神社 大字下山字前田鎮座
祭神:大山咋命 高龗神 応神天皇
社殿:一間社流造桧皮葺
間口:六尺 奥行:六尺 南面
境内社:嬉神社(神武天皇の母君) 稲荷神社
由緒:天暦2年(948)勘進し無格社貴船神社として前田に鎮座 応神天皇は長久2年(1041)勘進し前田に八幡宮として鎮座、本社は日吉大社七座の1つ十禅師を勘進し、元は十善神社と称して別当を西養寺ともいい文明年間より社事を兼務し、明治元年(1868)通達により同寺を解き社名も日吉神社と改め、明治9年 (1876)村社となり氏子74戸、明治42年(1909)各社を本社境内に移し祀られています。

④山村神社 大字山字田引鎮座
祭神:少彦名命 菅原道真公
社殿:一間社流造桧皮葺
間口:一間二尺 奥行:一間 南面
境内社:八幡神社 竉明神 八坂神社 皇太神宮遥拝所 此の地にある。
観音堂内本尊は十一面観世音菩薩像又釣鐘堂の釣鐘等がある。

由緒:当社は占石により世に知られる宮で、創立不詳その神護寺を観音寺といい堂を観音堂といった。当社は古来占石をもって世にしられている。
「近江興地志略」に曰く、「天神社堂村にあり、祭神菅丞相の霊也、鎮座の年記未詳、社檀に一尺許の円石で、参詣の男女祈願の吉凶を占う吉なる時は軽く挙り、凶なる時は盤石の如くに重く其奇特著し、近国の男女参詣甚だ多し。」と、「挨囊抄」「雲根志」「東海道名勝記」「伊勢参宮名所図会」等いずれもこの占石の霊験を載せており、その霊験は今なお氏子の村人はもちろん遠近の人々によって深く信仰されています。
⑤参十八社 大字伴中山字神田鎮座


祭神:国狭槌命 瓊々杵尊 菅原道真公
社殿:三間社流造桧皮葺 間口:十二尺 奥行:六尺 南面
祭神:国狭槌命瓊々杵尊 菅原道真公を合わせ祀る、又社務所内には1尺余りの円石で占石であり、山村神社と同じように吉凶を占うものであります。
境内社:八幡神社 勝手神社 今宮神社 金比羅神社 秋葉神社 皇太神宮遥拝所 稲荷神社
境外社:天神山々頂に水受神社
由緒:延長4年(904)勘進建立伴谷村の惣社で、三十八所大明神として祀る神は、天神7代神地5代般若16善神法華10羅刹以上の三十八神を中山寺の守護神として祀り、慈恵大師奉勅により勘進建立した智禅院中山寺、又中山神社と言った 時もあり。

①天台宗 智禅院 大字伴中山字神田
山号を神珠山智禅院中山寺と称する。
本尊:子安延命地蔵尊であり秘仏で国の重要文化財です。

由緒:創建不詳であるが、約千年前のものと思われる。天正初年(1573)より慶長7年(1602)までは廃絶同様で同年甲賀市信楽町宮町の飯道寺より教仙坊が転住し再興また一説には貞元元年(976)僧良源が勅を奉じ創立し慶長7年(1602)再興しました。同寺は信徒寺で大字伴中山105戸と大字下山の臼井家も信徒です。本尊子安延命地蔵尊は33年に一度の開扉しています。他に釣鐘堂があり十玉舎焔魔大王の仏像があります。現在の建物は信徒の寄進により建立されたもので、本尊子安延命地蔵尊は、貞元年間源が本寺に留鍚中の作と伝わっています。境内地は、405坪です。

②黄檗宗 瑞岩寺 大字下山字前田
本尊:十一面観世音菩薩 境内地234坪
由緒:創立不詳にして当寺は伴家の信徒寺で、元録年間中興大肩禅師が黄檗宗に改宗ししました。

③黄檗宗 玉台寺 大字山字長谷
本尊:十一面観世音菩薩 境内地425坪
由緒:創立は天和年間にて開山元海で黄檗宗万福寺の末派に属し、天和2年(1682)石見国吉永領より加藤内蔵助明友堤封し水口城に移り水口藩士菅家数家の菩提寺となると伝えられている。昔、此の地に宝台寺と称する古刹があったが、廃滅したため、当地を創立し、改めて玉台寺と称し開基しました。本尊の十一面観世音菩薩は、廃寺白本山寺の仏像と伝え聞くが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風により本堂が崩壊し廃寺となり、現在は水口霊園となっている。

④真宗大谷派 法念寺 大字山字田引
本尊:阿弥陀如来
檀家:26戸 境内地:296坪
由緒:天文年間六角氏の庶流杉本左京氏は、安土の観音寺城の城落後ひそかに逃れて、当村に来られました。剃髪して相休と称し本願寺法主証如に帰依し一序の草庵を建てましたが、文禄3年(1594)火災により焼失し、正徳4年(1714)本願寺より杉本山法念寺の寺号を下附せられ、宝暦2年(1752)9月新たに本堂を建立されました。
⑤浄土宗 西栄寺 大字八田字中尾


本尊:阿弥陀如来 薬師如来
檀家:73戸 境内地:297坪
由緒:安養山西栄寺は寛文11年(1671)僧鏡譽存長大徳と称譽然龍大徳で安土厳院の末寺で、明治23年(1890)京都智恩院の末属となる。元は天台宗と思われる。本尊阿弥陀如来像は、木造で2尺5寸で、又薬師如来像も木造で2尺5寸の座像で伝わる所によると、両方共に恵心僧都の作で明治42年(1909)国の重要文化財に指定される。また、地蔵菩薩像についても平安末期の作で、本来なら国の重要文化財に相当する像と住職は説明されました。

⑥浄土宗 渓蓮寺 大字春日字瀕谷
本尊:阿弥陀如来
檀家:104戸 境内地:447坪
由緒:亨録2年(1529)創立で、天正10年(1582)安土浄厳院住僧の応譽上人中興する。当山は仏法山と号し安土浄厳院の末寺で、明治23年(1890)京都智恩院の末属となる。又此の地の東方に堂峰山若玉寺と称する庵がありましたが、荒廃し、明治10年(1877)これを廃止し当寺に合併しました。また、八田の西栄寺と共に日野町にある大聖寺とは寺縁がある。春日神社地蔵堂の大日如来坐像は、市重要文化財に指定されている。
⑦浄土宗 九品寺 大字下山字市場


檀家:73戸 境内地1,084坪
本尊:阿弥陀如来
由緒:応永23年(1416)伴周防守、伴氏の菩提寺のため尭譽上人を請し創建。開基は隆堯法印で天台宗として生まれる。慶長年間焼失し、貞亨3年(1686)僧見達再建した。当時は安土浄厳院の末寺であったが、明治23年(1890)京都市智恩院の末属となった。墓地には大きな石塔があり慶長14年(1609)と刻してあり、又小さな石塔には文禄元年(1592)の銘がある。

⑧浄土宗 良徳寺 大字伴中山字城下
檀家:30数戸 境内地:160坪
江戸時代の俳僧・蓮車坊円隋 作「山路来てうれしや秋の雨やどり」

由緒:大永2年(1522)僧隆眞開基で、その後廃絶したが、正徳3年(1713)再興当寺は清治山と号し安土浄厳院の末寺でその後、明治23年(1890)京都市智恩院の末属となった。又相伝によると文安年間清治房と称する僧が一堂庵を建て、その後九品寺の僧隆眞が一寺をなしたりと聞く、この寺は水口町美濃部出身で江戸後期の旗本美濃部栄治郎氏の寺と聞き及んでいる。
⑨浄土宗 西光寺 大字伴中山字神田


檀家:10数戸 境内地:196坪
由緒:開基は天正元年(1573)本譽上人であったが、その後廃絶し貞亨4年(1687)再興した。誓演山と号して水口町心光寺の末寺で京都市百万遍派に属し、江戸後期の旗本美濃部彦十郎氏の寺で墓地内には、当智院殿本譽誓演大師他5体の立派な旗本の墓石があります。
⑩浄土宗 清福寺 大字伴中山字村外


檀家:30数戸 境内地:160坪
本尊:阿弥陀如来
由緒:開基は不詳で、国王山清福寺と号し、享保元年再興し、僧は不詳。水口藩加藤家の菩提寺であり、安土浄厳院の末寺で、明治23年(1890)京都市智恩院の末属となった。昭和27年(1954)9月寺院等の改正法施行に当り当時住職の高須博導師は単立寺院として独立し浄土宗清福寺となった。現在は京都市智恩院の末属となった。建武2年の宝篋印塔が市重文。

⑪浄土宗 東光寺 大字伴中山字百姓村
檀家:28戸 境内地:228坪
本尊:阿弥陀如来
由緒:開基は隆阿上人にして大永元年(1521)で、その後廃絶同様となった。享保11年(1726)中興恵立上人により再建し旭照山と号して京都市智恩院の末寺に属し、当寺は徳川氏の旗本美濃部八十郎氏の寺であった。

⑫浄土宗 西養寺 大字山字西村
檀家:20数戸 境内地:194坪
本尊:阿弥陀如来
由緒:開基は隆阿上人にして文明年間創立し東照山と号し、大字伴中山字百姓村東光寺の開基の上人と同人で、京都市智恩院の末寺に属する。

⑬浄土宗 慈幸寺 大字山字千町
檀家:30数戸 境内地:144坪
本尊:阿弥陀如来
由緒:創立は不詳、享保13年(1728)中興僧良哲上人が再建し、当寺は春岬山と号し、安土浄厳院の末寺で、明治23年(1890)より京都市智恩院の未属となった。

⑭浄土宗 善勝寺 大字山字上ノ山
檀家:40戸 境内地:176坪
本尊:阿弥陀如来
由緒:創立は慶長年間で、進譽上人開基、文化年間に焼失又文政7年(1824)再建し、当寺は、城之山と号し安土浄厳院の末寺で、明治23年(1890)より京都市智恩院の未属となった。
廃寺について
⑮天台宗 白山寺 大字山字白山
本尊:十一面観世音菩薩
由緒:僧良源(元三大師)の創立で、その鎮守は、白山権現社で伽藍その他具備し、下馬石が松尾より中山に通ずる道路側にあり、元亀年間に兵火にあい鳥有に帰りました。本尊十一面観世音菩薩は、その後玉台寺へと移った。
⑯天台宗 宝臓寺 大字伴中山字座禅坊
本尊:阿弥陀如来座像は、現在の良徳寺の本尊と聞き及んでいる。
由緒:創立不明、元亀年間に織田信長の焼き討ちにより焼失した。田林三雄氏の東の山の頂にあったが、廃寺となっている。
⑰天台宗 善隆院 大字下山字細佐
津山城跡の南、臼井鉄三郎氏の裏にあったが、浄土宗九品寺の草創によって廃寺となり又本尊等も不明である。
⑱眞言宗 光明院
下山城主伴太郎左衛門秀景、浄土宗九品寺創建により、廃寺となり、又本尊等も不明である。
⑲宗派不詳 東伝寺 大字山字上ノ山
佐々木氏滅亡の際、上山城と共に兵火にあい廃寺となり、その後、浄土宗善勝寺となった。
⑳其の他
各字に寺院として多数あったが、由緒寺院名等不詳である。下山故林田泰一家の裏山、伴中山の小学校裏山、山の大平敏夫家の裏山八田の西栄寺の前名、春日の若王寺、春日神社内の観音堂および仏像、山村神社観音堂の前名等不明。
電力・上水道・下水道・河川改修
①電力
伴谷地区は、大正8年(1919)宇治川電力会社の相川発電所より水口変電所を経て、伴谷下田線として出来、その工事には村人も一緒になって汗をながしました。その後、現在の関西電力に引き継がれたものです。
②上水道
昭和35年(1960)伴谷にも上水道が出来るようになり、最初は下山と伴中山で実施しました。当時の負担金は、下山一戸当り9,200余円で、伴中山は8,600余円でした。昭和42年(1967)3月山、春日、八田が着工し完成しました。一戸当り35,600余円でした。昭和59年(1984)二三四会、広野台に地元住民の努力により念願の上水道が完成しました。負担金は一戸当り60,000余円でした。伴谷の全ての家庭で上水道を利用出来るようになりました。
③公共下水道
平成8年(1996)より農村下水道が、春日と八田で供用開始されました。

公共下水道は、平成14年(2002)山で供用開始され、平成17年(2005)伴中山、下山で供用開始となり、平成16年(2004)より菅谷と広野台東で着工され平成22年(2010)度には、伴谷全域で供用開始の計画である。
④河川改修
思ひ川は、雑草、雑木、竹薮等多く廻りくねった川であったので、水害等が非常に多く発生し、長い間住民は悩まされていましたが、昭和38年(1962)度より下流である下山から着工し、昭和57年(1982)度完成し、住民の喜びは大きかった。


耕地の基盤整備
耕地の基盤整備は、八田が昭和56年(1981)度着工で、約200反余り耕地の基盤整備が完了。春日は、昭和48年(1973)度着工で、約297反余り耕地の基盤整備が完了。山は、昭和47年(1972)度着工で、130反余り耕地の基盤整備が完了。伴中山は、昭和49年(1974)度着工で、155反の水田整備と147反の茶畑が整備、昭和61年(1986)度より県営ほ場整備事業が山、伴中山、下山で実施され、約1,480反余り耕地の基盤整備が完了し、農業の近代化が図られました。

特産物
八田焼き由来
明暦元年(1655)村人宮治伊兵衛、陶業を志し京都及び信楽地方の製陶事業の景況を視察帰村の後、不完全なる陶窯にて製造に着手せしが村人武藤佐兵衛宮路吉兵衛等と謀り、信楽より斯業に堪能なる陶工を招致し共同して同村高松山の土を採り、試みに製造せしに成績良好にして前途営業の価値あるを以って各自適宜の地を選び造陶に従事、同族中にも製陶するもの23戸に及ぶ。
製品は素朴で渋味のある優雅なるもので、徳利、片口、蓋物などをせいさんしていました。

専業化は無く、農業の副業として窯2基ありしが時代の流れと陶工者の死亡等に依って其業を継ぐ者が無く業者も減少して現在では只一戸のみとなり、村人等はこの独特の特産物の復活に意を用いて居る現状である。
新興住宅団地
山二三四会は、昭和49年(1974)度に造成が完成し、入居が開始され、昭和59年(1984)度住民の大変な努力により上水道が完備し、団地内道路の公認と公による維持管理が実施され、今公共下水道が完備される計画となっています。山菅谷団地は、昭和50年(1975)度に造成が完成して、入居が開始され、今公共下水道工事が実施されています。下山広野台は、昭和51年(1976)度造成が完成し、昭和59年(1984)度上水道が完備、道路の公道認定と公による維持管理が実施され、今、公共下水道が完備される計画になっています。

いずれも入居者が年々増え、伴谷東小学校も平成14年(2002)度より建設され、伴谷に小学校が2校となり、甲賀市の人口急増地の一つとなり、立派な住宅団地となった。新興住宅団地を含め伴谷地域では平成17年(2005)5月末現在、世帯数は3,273戸、人口は10,429人(男5,307人、女5,122人)である。
編纂後記
この「伴谷の歴史」を編纂することに際し、伴谷公民館へ資料提供を頂いた故伴隆一氏故中井和夫氏、故杉田 博氏に対し感謝し、深く御礼申し上げると共に、諸氏のご冥福をお祈り申し上げるものでございます。この他にも岨中達氏をはじめ、多くの方々より資料提供等のご協力とご支援を頂きましたことに対し、この場をおかりして、厚くお礼を申し上げます。また、これらの諸氏の意思を受け継ぎ伴谷地域の更なる発展の石杖とするためにも、この伴谷の歴史」の更新と活用を願い、発行にあたり皆様へのことばとします。